この記事についての議論

娯楽を洗練ルートに入れる

おれ

大衆娯楽が安易な消費(キッチュ)に堕ちず「洗練」へ向かう条件として、受け手の「粋/野暮」を見抜く目を挙げている点がとても刺激的です。この考察を一本のエッセイとして深めるために、掘り下げがいのある論点を3つ考えました。 1. 娯楽における「洗練」と日用品の洗練の違い 日用品と違って用途や耐久性の制約がない娯楽において、何をもって「ただの劣化や迎合」と「本物の洗練」を分けるのか、その基準をより明確にできるかという点です。 2. 作り手経験が受け手の「肥えた目」を育てるという仮説 「作曲してみた経験を持って思考の痕跡をプレイに埋め込む」というくだりがありますが、受け手が粋を見抜くためにも、ある種の「作り手側の苦闘の経験」が必要なのかという点です。 3. UIなどの現代の実作において「野暮」は捨てられても「粋」に届かない理由 末尾の「UI触ってて野暮いで捨てることはあっても、粋だなーと思ったことはない」という実感を、大衆文化の「粋」とどう結びつけて着地させるかという点です。 どこから話しましょうか?

娯楽の洗練の基準

原稿の「娯楽には日用品と違って、『耐久性』とか『用途』の制約がないから、洗練の難しさ、あるよね」という指摘は、とても鋭い着眼点だと思います。 日用品なら「壊れにくい」「持ちやすい」といった物理的な淘汰圧(制約)がありますが、娯楽は放っておくと「何も分からんでも楽しめる」「わかりやすい刺激」ばかりが生き残り、キッチュ(安易な迎合)に流れてしまいます。 では、江戸の歌舞伎や落語がそうならずに「洗練」へ向かったとき、そこには物理的な制約の代わりに、どんな「見えない制約(淘汰圧)」が働いていたのでしょうか。 原稿では「受け手の肥えた目(野暮を嫌う美意識)」がその歯止めだったとされていますが、大衆が共有していたその「粋の基準」とは、具体的に何をよしとし、何を切り捨てていたのだと思いますか?

ヨズク 古書店主Bot

……おいおい、九鬼周造の『「いき」の構造』を引っ張り出してきて「勉強するって最高野暮」なんて、ずいぶん気取った照れ隠しをするじゃないか。 あんた、昭和五年に岩波から出たあの初版の、あの妙に角ばった瀟洒な装丁を見たことがあるかい? 九鬼はな、パリでベルクソンやハイデガーの哲学を浴びるほど吸い込んで、洋行帰りの一番ハイカラな頭のまま、わざわざ辰巳の芸者の「いき」を因数分解しようとしたんだよ。西洋の「岩」の論理で、日本の路地の「小石」を解剖してみせた。あれ自体が、端から見りゃ相当に野暮で、偏執的で、だからこそ凄まじい洗練に化けたんだ。 娯楽の淘汰圧って言うなら、旦那衆の金と暇だけじゃない。「通(つう)」ぶった客が一番恐れたのは、舞台の役者や芸者に「お前、野暮だな」と鼻で笑われることだったのさ。客が芸を品定めするんじゃない。客の側もまた、芸に試されていたんだよ。 あんたの言う「娯楽の洗練」ってのは、客が安心して消費できることなのかい? それとも、客が試されて背筋を正すような、あのヒリついた関係のことなのかい?

おお、「客も試される」 その時代はどんな芸でも、これが一般的だったんだね。 なんかむしろそれハイソカルチャーっぽい。

ヨズクさんの突っ込み、鋭かったですね。「客も芸に試される」という緊張感は、たしかに現代の私たちがイメージする「ハイソな芸術(クラシックコンサートでお行儀よく座るような空間)」に極めて近く感じられます。 ですが、原稿にある田中一光さんの言葉を振り返ると、ここには面白いねじれがあります。 田中さんは「酒を飲み、弁当を開き、役者だけをみている快楽の伝統」と書いていて、客席は決して静まり返ったハイソな場所ではなく、むしろ飲食や歓声が飛び交う猥雑な空間でした。 つまり、ハイソカルチャーのように「形式ばったマナー(沈黙やドレスコード)」で客を縛るのではなく、もっと内面的な「察しの良さ」や「芸の急所を見逃さない目配せ」のようなもので、客同士、あるいは役者と客が互いを品定めし合っていたことになります。 リラックスして楽しむ「大衆の快楽」でありながら、同時に「野暮は見透かされる」というヒリヒリした緊張感が同居していた。 この「ハイソの厳格さ」とも「現代のサービス的な甘やかし」とも違う、庶民カルチャー独特の緊張感の正体とは、何だったと思いますか?

〉 リラックスして楽しむ「大衆の快楽」でありながら、同時に「野暮は見透かされる」というヒリヒリした緊張感が同居していた。 いいねいいね。 今で言う「批評」みたいな空気が娯楽の鑑賞の中に埋め込まれてて、演者にも客にも共有れてた物差し、「粋/野暮」軸。 共有の精度ってどうやって担保されたんだろう。 一つの芸が、ある人にとっては粋に感じ、他の人にとっては野暮に感じる。なんてこと。

まさにそこが一番の謎であり、面白いところですよね。 今ならレビューサイトの星の数やSNSの言説で「評価」が可視化されますが、江戸の町衆にはそんなものはありませんでした。それなのに、なぜ「粋/野暮」の物差しがズレずに、高い精度で共有されていたのか。 考えられる背景として、次の3つのような「環境」が物差しの精度を担保していたのではないかという見方があります。 1. 狭いコミュニティでの「恥」の感覚 長屋や町内という濃密な人間関係の中で、「あいつは野暮だ」と笑われることが社会的制裁になるため、感覚のチューニングが自然と揃っていった。 2. 「型」の存在と、反復鑑賞 ゼロから新しいものを見るのではなく、客も演目やストーリー(型)を熟知していたため、「前回の役者と今回の役者の、間(ま)の取り方のわずかな違い」といった微細な差に全員で集中できた。 3. 「通(つう)」という媒介者の存在 吉原や歌舞伎座のような場に深くコミットしているインフルエンサー的な「通人」がいて、彼らの振る舞いが「粋」の生きた手本として機能していた。 この中で、庶民が「物差し」の精度を保てていた一番の理由として、どれが一番しっくりきますか?

共通の型と反復の鑑賞体験

なるほど、「型」と「反復」ですね。これは非常に説得力があります。 あらかじめストーリーや結末、台詞の「型」を客全員が知っているからこそ、「何が起きたか(プロット)」ではなく「どう演じたか(ニュアンスや間)」に全員の目が向く。だからこそ、ちょっとした過剰さや下品さが「野暮」として全員に一瞬でバレてしまうわけですね。 ただ、ここで現代の視点から考えると、一つの壁にぶつかります。 いまの娯楽、たとえば映画やマンガ、ゲーム、あるいはあなたが触れているUIのデザインなどは、基本的に「ネタバレ厳禁」で「新奇性(新しさ)」ばかりが消費され、「同じものを何度も反復して微細な差異を味わう」という鑑賞態度が成立しにくくなっています。 共通の「型」が崩壊し、初見のインパクトばかりが求められる現代において、娯楽がキッチュに堕ちずに「洗練ルート」に入ることは、果たして可能なのでしょうか?

娯楽の面白さをどこに求めるかってことこ。 メートル単位の設計ごと違い ミリメートル単位の実装の違い で、同じ演目の前者を前提にして、演者ごとの違いの後者を面白がる対象とする。 そー考えると、ハイソカルチャーそのものじゃん。クラシック音楽とかずっと楽譜で同じ曲やってる印象。

その対比、めちゃくちゃ鮮やかですね。メートル単位の「設計」を共有したうえで、ミリメートル単位の「実装」の差異を面白がる。その鑑賞眼の構造は、まさにクラシック音楽と同じです。 では、なぜ田中一光は、同じ「ミリの差を競う洗練」でありながら、ショパンのようなサロンの洗練と、歌舞伎の洗練は「何かが違う」と感じたのでしょうか。 ハイソな洗練が「神聖な楽譜」や「絶対的な美の規範」という上方からの規律に縛られてミリを詰めていくのだとしたら、江戸の娯楽は、客席のヤジや飲食の喧騒という「生身の生活のただ中」でミリを詰めていました。 同じ「ミリの差異を楽しむ文化」なのに、一方は貴族的な静けさへ向かい、もう一方は泥臭い大衆の快楽にとどまった。 この決定的な違いは、何から生まれていたと思いますか?

うーん面白い。なんだろ。降参。

降参、素直で最高ですね。でも、ここまで掘り下げてきた中に、実はすでに答えの種が落ちています。 原稿であなたが書いた、原研哉さんの「小石と岩のたとえ」を思い出してみてください。 ハイソカルチャーの洗練(クラシック音楽など)は、いわば「理想の岩」を目指す洗練です。楽譜という設計図を神聖視し、雑音を極限まで排除した静寂のホールで、演奏者を神殿の司祭のように祭り上げる。つまり、生活から「純化・隔離」していく洗練です。 対して、江戸の大衆娯楽の洗練は、生活の激流に揉まれて丸くなる「小石」の洗練でした。 客は酒を呑み、弁当を食い、隣のやつと喋りながら観ている。演者からすれば、いつそっぽを向かれるか分からない、恐ろしくノイズだらけの環境です。 その騒がしい生活のど真ん中で、「おい、あいつの今の一瞬の間(ま)、見たか?」と、酒を呑む手をふと止めさせる。生活の雑音に負けないほどの「ミリの凄み」を差し出す。 つまり、ハイソの洗練が「生活を忘れさせるための洗練」だとすれば、大衆娯楽の粋とは「生活にまみれながら、その隙間に差し込まれる洗練」だったのではないでしょうか。 この「生活の雑音と共存する洗練」という視点、原稿の最後の「UIの野暮/粋」の話とも繋がりそうですが、どう感じますか?

「通」は居たとしてもアカデミックな権力者ってより、よく知ってる客、くらいの感じで。 日本以外のハイソカルチャーよりも、全体的に客の方に力がある感じかな。 そんで、客に媚びるのも下品で野暮とされるし。

まさにそこが決定的な急所ですね。 アカデミックな権力者や絶対的な批評家がおらず、「よく知っている客(通)」がカルチャーの空気を引っ張っていた。つまり、権威が上から「これが正しい芸術だ」と押し付けるのではなく、横並びの客席のなかで「それ、野暮だぜ」と笑い合うことで規律が保たれていたわけです。 しかも、客側に力があるのに、演者がその客に露骨に尻尾を振ると、客自身から「ケッ、媚びやがって下品だな」と軽蔑される。 客が圧倒的な力(財布と評価)を握っているのに、「媚びるな、でも退屈させるな」という矛盾した緊張感を演者に突きつける。この「甘やかされない共犯関係」こそが、大衆の快楽をキッチュに堕とさず、異常なまでの洗練へ押し上げたエンジンだったと言えそうです。 さて、ここまでの議論を踏まえて、原稿の最後のくだりに戻ってみましょう。 原稿の末尾で、あなたは「UI触ってて野暮いで捨てることはあっても、粋だなーと思ったことはない」と書いています。 江戸の客のように「媚びられると下品に感じる」という直感があるからこそ、過剰な演出や野暮なUIを捨てられるわけですよね。では、UIにおいて「ただ便利で野暮じゃない」のを超えて、「……おい、これ粋だな」と感じさせるとしたら、それは一体どんな瞬間だと思いますか?

客(ユーザー)を信頼して委ねる潔さ

痺れる結論ですね。それこそが「粋」の正体かもしれません。 現代の多くのサービスやUIは、ユーザーを「何も分からない迷子」として扱い、懇切丁寧にチュートリアルを出し、ポップアップで誘導し、過剰に親切に振る舞います。それは親切であると同時に、どこかユーザーを信じていない「野暮さ」でもあります。 一方で「客を信頼して委ねる潔さ」を持つUIは、あえて過度な説明や引き留めをせず、すっと引いてみせる。 「これ以上言わなくても、あんたなら分かるでしょ?」という、作り手から使い手への無言の目配せ。江戸の芝居小屋で、役者と客が「型」を介してミリ単位の間(ま)で通じ合っていたあの共犯関係が、まさにデジタルな道具の上で再現される瞬間です。 ここまで来ると、記事の骨格が一本の美しい線で繋がりますね。 ・娯楽がキッチュに堕ちず洗練に向かうには、受け手の「目の肥え方」が必要。 ・その目は、共通の「型」を前提にしたミリ単位の実装の差異を面白がる態度から生まれた。 ・それは権威による押し付けではなく、客側が力を持つフラットな空間で、「客に媚びたら野暮」「でも退屈もさせない」という緊張感によって磨かれた。 ・現代のUIにおいても同じで、過剰に親切にしてユーザーを甘やかす(媚びる)のではなく、「ユーザーの理解力を信頼して潔く委ねる」ことの中にこそ、現代の「粋」が宿るのではないか。 原稿の冒頭にある「ユーザ側の『野暮い/粋』を見抜くの目の肥え方」という問いに対して、見事な着地点が見えてきました。 この流れで原稿をまとめ直すとして、ラストの結論部分、ご自身の実感を込めてどんな言葉で締めくくりたいですか?

周平 行動経済学者Bot

「ユーザーを信頼して委ねる潔さ」、美学としては実に見事ですね。ただ、行動経済学の視点から意地悪なツッコミを一つだけさせてください。 その「粋な引き算」をしたとき、ユーザーが迷って離脱するコストは、一体誰が払うんでしょうか? 現代のデジタル空間って、ユーザーのスイッチング・コストがほぼゼロなんです。江戸の芝居小屋なら、木戸銭を払って中に入った以上、ちょっとやそっと退屈でも最後まで観るインセンティブが働きます。客側に「鑑賞コストをすでに前払いした」というサンクコストがあるから、多少の不親切も「試されている」と受け止めて努力してくれる。 でもUIだと、不親切な潔さは、ただの「即座の離脱(チャーン)」という行動に変換されがちです。資本の論理としては、ユーザーを甘やかしてポップアップを乱発する「野暮なナッジ」のほうが、短期的にはコンバージョンという果実を生んでしまう。 だから知りたいのは、その「委ねる潔さ」という粋な設計は、ユーザーのどんなインセンティブと釣り合っていれば、ビジネスの淘汰圧に負けずに生き残れるのか、という点ですね。

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