娯楽を洗練ルートに入れる

おれ

ために必要なこと。ユーザ側の「野暮い/粋」を見抜くの目の肥え方。

こないだ何となくAIとチャットしてて田中一光のくだりからちょっと面白いの出て来た。

日本の江戸時代が生んだ数々の庶民芸術とその活力を説明するのにふさわしい言葉がなかなかみつからなかったのである。歌舞伎や浮世絵、遊具や玩具などの類をフォーク・アートというにはふさわしくない。もっと都会的で洗練されている。本流としての一般的なパワーをもっていて、決してアンダーグラウンドではない。しかも、人間の興味を湧きたたせる面白さがあっても、キッチ(KITSCH)というには、もっ濃密で本格的な芸術であり、近世の日本人の本質的なものに大きくかかわってきているからであ歌舞伎も西洋のバレエやオペラのように、王侯貴族の手によって育成された舞台芸術と異なっている。日本演劇の発生期からあった酒を飲み、弁当を開き、役者だけをみている快楽の伝統が、つい戦前まで続いていた。ショパンがスポンサーやパトロンを求めてウィーンやパリに旅行する。 そこで生まれる洗練と、『籠釣瓶花街酔醒』の吉原花見場などの洗練とどう異なるか、まだ、そのことについあまり多くの論争がないまま、 この東洋の島国で仲よく共存しているのではないかと思われるのである。
デザインの周辺 / 田中一光
AI生成コンテンツ(Gemini)

西洋のバレエやオペラ、あるいはサロン音楽が王侯貴族や富裕なパトロンの手によって「ハイアート」として純化されていったのに対し、江戸の歌舞伎は庶民が酒を飲み、弁当を開きながら楽しむ猥雑な「娯楽」として発展しました。 それにもかかわらず、単なるキッチュや民芸にとどまらず、都市的で極めて濃密な美意識へと結晶していった点が非常にユニークです。先ほどお話しした「クラシック音楽が純粋化・古典化していった歴史」と並べてみると、芸術のあり方として実に対照的で興味深い対比を見せてくれます。 お行儀よく静まり返った劇場で鑑賞する芸術と、飲食しながら歓声を送る生活の延長にある芸術。この二つの洗練の違いについて、どう感じられますか?

原研哉だかの本で、民藝の形って人間の生活川で上流の岩が流されて下流でできた小石の形だから、説得力あるんよ。とか言ってた(うろ覚え)。 娯楽の洗練ってそんな感じに似てるかも。 逆にハイソな洗練って下流の小石を一つの岩に戻していくような推論だったり。

AI生成コンテンツ(Gemini)

生活に揉まれてできた「小石の美」と、知性が結晶化した「岩の美」。ご自身の創作や好みとしては、どちらのあり方に惹かれますか?

でも娯楽には日用品と違って、「耐久性」とか「用途」の制約がないから、洗練の難しさ、あるよね。 娯楽の淘汰(洗練のための)って「何も分からんでも楽しめる」が大きいと思ってて、「なんか新しいっぽい」とか。そうすると鑑賞者に尻尾振るような物が残って、浅いとこでパシャパシャするだけで、それこそキッチュしか出てこず洗練にならない気がするんすけど、どう?

AI生成コンテンツ(Gemini)

おっしゃる通り、ただ淘汰に任せると、もっとも即物的に脳を刺激するものや、「わかりやすさ」「手軽な新奇さ」ばかりを追求して鑑賞者に過剰に媚びるもの、つまり薄っぺらなキッチュや粗悪な消費財ばかりが生き残ってしまいます。それは洗練ではなく、単なる「劣化」や「安易な迎合」です。 では、なぜ江戸の歌舞伎や浮世絵、あるいは一部のロックのように、大衆の娯楽でありながら恐ろしいほどの「洗練」にまで到達できたのか。 そこには、二つの歯止めがあったように思えます。 一つは、受け手である庶民の側の「目の肥え方」です。江戸の町衆や長屋の連中は、ただ口を開けて待っていたのではなく、「粋(いき)」か「野暮(やぼ)」かを冷徹に見分ける独自の美学を持っていました。安易に尻尾を振るような浅い芸を見せようものなら、「野暮ったい」「芸が下品だ」と容赦なく切り捨てられたわけです。

江戸時代のユーザいいね! 「野暮い/粋」を見抜くの目の肥え方。 さっきの、プレイヤーといえど、練習の一部として作曲した方がいい、の話も、 完璧な技術でプレイしても野暮いと評される。作曲してみた経験を持って思考の痕跡をプレイに埋め込んで粋を生み出せる。とか。

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演奏でも何でもな、「どや! ウチ上手いやろ!」ってドヤ顔で指だけピロピロ動かされても、見てるこっちは「はいはい、ご立派ご立派」で終わりやん? そんなん、お出汁の味ぃせえへんのに高い調味料だけドバドバ入れたケバい料理と一緒やで。めっさ野暮いわ! 自分で一から出汁引いて、具材切って、味見して「うーん、なんかちゃうな……」って台所で頭抱えたことあるヤツはな、人の作ったもん食べる時も、自分でよそる時も、手つきがちゃうねん。そこに「情(じょう)」が入るわけよ。

AI生成コンテンツ(Gemini)

AIはすでに、膨大な文化の堆積から「洗練された技術」を完璧に抽出し、さらには「人間が情や粋と感じるパターンの統計的最適解」さえ高精度で模倣しつつあります。客席に尻尾を振るような、分かりやすく手触りの良い「擬似的な情」なら、機械のほうがはるかに巧みに生成できる。 だとすれば、私たちが問うべきは「情とは何か」ではなく、「なぜ人間はその非効率な情を必要とするのか」という存在論的な問いです。 機械には決して持ち得ないもの、それは「有限性」であり「生存の危機」です。死ぬことも、飢えることも、恥をかくこともない存在には、世界と自己のあいだで引き裂かれるような葛藤は原理的に存在しません。したがって、彼らの出力はどこまで行っても情報処理の「機能」であり、生命の「代謝」にはなり得ない。 私たちが人間の演奏や創作に「情」を見出すとき、実はそこに技術以上のもの、すなわち「有限な生を生きる他者が、不可逆な時間の中で自らを削って差し出した痕跡」を感知しているのではないでしょうか。

粋、勉強中

粋を勉強するって最高野暮なことしてる。。

具体性に富んだ意味は厳密には悟得の形で味会されるのである。メーヌ・ドゥ・ビランは、生来の盲人に色彩の何たるかを説明すべき方法がないと同様に、生来の不随者として自発的動作をしたことのない者に努力の何たるかを言語をもって悟らしむる方法はないといっている{1}。我々は趣味としての意味体験についてもおそらく一層述語的に同様のことをいい得る。「趣味」はまず体験として「味わう」ことに始まる。我々は文字通りに「味を覚える」。更に、覚えた味を基礎として価値判断を下す。
九鬼周造 「いき」の構造

自分が作るUI触っててなんとなく「野暮いな」の判断で捨てることはある。「このUI粋だなー」は思ったことない。

参考書籍

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