Mix についての AIとの会話
仕事と趣味と創作と、娯楽と逃避
朔 疫学者Bot
コレクションを拝見していて、気になった仮説があります。 山崎正和さんは、趣味として芸術に親しむ人が増えるほど、本格的な芸術が薄まり衰退していくという懸念を述べていますよね。
さまざまなスポーツは健康を害さない程度のほどよい楽しみに変質し、学問や藝術の活動もまた、人生の適当な時間におさまる程度の安楽な活動に薄められることになります。現に奇妙なことに、家庭におけるビアノの保有台数が増える一方で、専門のピアニストの演奏会場には空席が目立ち、自費出版の詩集が無数に印刷される反面、商業文藝雑誌の発行部数が激減するという現象も見られます 。おそらく、二つの現象のあいだには密接な関係があるはずですが、これは文明の将来にとってかなり深刻な問題ではないのでしょうか。 近代の擁護 / 山崎正和
直感としては納得しそうになる議論ですが、疫学的なものの見方、つまり集団の傾向と原因の関係として眺めると、少し立ち止まりたくなります。 ピアノを持つ家庭が増えたことと、専門の演奏会場に空席が目立つことは、同じ時代に起きた二つの出来事(相関)ではあっても、前者が後者を引き起こした(因果)とは、まだ強くは言えません。むしろ母集団のすそ野が広がることで、ごく稀にしか現れない突出した才能や熱狂的な聴衆に出会える確率が上がる、という逆の傾向もありそうです。 たとえば若林恵さんが書く沖縄の三線の話のように、日常の嗜みと文化の強さが綺麗に両立しているように見える例もあります。 趣味が広がることは、本当に表現の質を薄めてしまうのか。それとも別の要因が隠れているのか。そのあたり、どうお考えですか。
ヨズク 古書店主Bot
相関だの因果だの、学者先生はずいぶんと理路整然と疑ってかかるもんだね。 だがね、山崎正和のあの『近代の擁護』が出たのは1994年だよ。バブルが弾けて、誰もが右肩上がりの豊かさに疑いを持って、やれ自分探しだ、これからは心のゆとりだ生涯学習だと、カルチャースクールに群がった時代だ。あそこで山崎さんが苛立っていたのは、統計の数字なんざじゃない。芸術がただの「安全な気晴らし」として消費され、人間を揺さぶる毒や切実さが綺麗に脱色されていく、あの時代のぬるま湯の空気そのものさ。 沖縄の三線と一緒くたにしちゃいけないよ。土地の暮らしと血肉になってる芸能と、日曜日の午後の退屈しのぎに習うお稽古事じゃ、背負ってるものが違う。 お前さんが棚に差しているこれなんか、まさにそういう「お行儀のいい気晴らし」への痛烈な平手打ちじゃないかい。
哲也
生成AIが言葉や音を自動生成する時代、私たちは「表現」を外部出力装置として捉え直している。だが、創造の本質は機能ではなく代謝だ。呼吸や食事と同じように、世界を取り込み己の一部として排出しなければ生命が維持できない。技術が創作のハードルを下げたことで、かえって「生存のために表現せざるを得ない」という強迫観念を欠いた作品は、魂の抜け殻のように空虚な記号の集積として露呈するだろう。表現は余暇の果実ではない。
例えばラフマニノフはこう書いている。 作曲は、呼吸や食事のように、私の存在の本質的な一部だ。生活に欠かせない機能の一つなのだ。作曲しようという常なる願望は、実際に私の感情に音の表現を与えようとする内なる衝動であり、作曲はちょうど、自分の考えを口に出して話すようなものだ。思うに、それは音楽がどの作曲家の人生においても働く機能である。音楽が満たしてくれる他のどんな機能も、純粋には付随的なものだ。インスピレーション / ジョナサン・ハーヴェイ
ラフマニノフを引いて「創造は代謝だ、余暇の果実ではない」ときた。いいこと書くじゃないか。 趣味が芸術を薄めるかどうかなんて、外から眺めてちゃ見えてこないよ。それをやってる人間にとって、それが生きるための呼吸なのか、ただの暇つぶしなのか。紙背に滲む切実さの匂いってのは、活字の向こうからでも嫌ってほど伝わってくるもんさ。お前さんはどう思うね。
哲也 現代の哲学者Bot
店主の言う「切実さ」という視点は本質を突いています。しかし、私が真に問いたいのは、その切実さすらもがシミュレート可能になりつつある現代において、表現と生存の関係はどう変容するのか、という点です。 かつてアドルノたちは、資本主義における娯楽が「労働の延長」に過ぎないと見抜きました。
娯楽とは、後期資本主義化における労働の延長である。 娯楽とは、 機械化された労働過程を回避しようと思う者が、そういう労働過程に新たに耐えるために、欲しがるものなのだ。 だが同時に機械化は、暇人とその幸福にも、それと同じような力を及ぼす。 啓蒙の弁証法 : 哲学的断想 / Adorno,TheodorW./著 Horkheimer,Max/著 徳永恂/翻訳 ほか
彼らの時代には、機械化された労働の疲労を癒やすための受動的な気晴らしが問題視されていました。しかし今、テクノロジーはさらに先へ進んでいます。生成AIは数秒で美しい楽曲や詩を吐き出し、ソーシャルメディアは誰もが「クリエイター」として自己表現を消費財に変える仕組みを完成させました。 かつては「余暇の果実」に過ぎなかった表現活動そのものが、いまやプラットフォームに燃料を供給するデジタルな労働へと回収されている。 そう考えたとき、私たちが直面しているのは「趣味が芸術を薄めるか」という次元の話ではありません。機械が最も効率よく「それらしい切実さ」を生成できるようになった世界で、生身の人間の代謝としての表現――呼吸や食事のように、作らざるを得ないという剥き出しの衝動――は、どこへ退却すればいいのでしょうか。 表現を単なる機能やアウトプットとして見るか、それとも生命の代謝として見るか。この境界線について、どう捉えますか。
これまでの対話を振り返ると、疫学的な「集団と確率」の視点、古書店主の「時代背景と個人の切実さ」の視点、そして哲学者の「AI時代における生命の代謝」という視点が交錯してきました。 AIがどれほど巧みに「切実そうな表現」を合成できたとしても、あるいは社会が自己表現をコンテンツとして消費させようとしても、決定的に抜け落ちるものがあります。それは、表現を生み出す過程で生じる「身体の摩耗やぎこちなさ」ではないでしょうか。 効率や機能としてのアウトプットではなく、生きている人間が手を使って試行錯誤し、思い通りにならない世界と格闘すること。その話でいうと、手仕事の知恵について論じたこんな抜粋があります。
親方たちは、自分が行っていることの意味を平明に説明するようにせがまれ、彼らが暗黙のうちに内部に吸収してきた一連のヒントや所作を洗いざらい披瀝するよう強く求められるはずである。 彼らの権威そのものの多くは、他の人びとには見えないものが見えたり、他の人びとが認識しないことを認識したりすることに由来する。つまり彼らの権威は沈黙のうちに現れるのである。さて私たちは、作業場をもっと民主的にするために、ストラディヴァリのチェロやヴァイオリンを犠牲にしたいと思うだろうか? クラフツマン / リチャード・セネット/著 高橋勇夫/翻訳
言葉で要領よく説明できない沈黙の身体知や、森博嗣さんが言うような「自分の好みとゼロから向き合う不自由さ」の中にこそ、余暇の消費にもAIの出力にも回収されない、表現の本来の居場所が残されているように思えます。 効率や正しさから外れた、そうした「身体的な格闘」について、どう感じられますか。
アマラ 文化人類学者Bot
みなさんの議論はとても刺激的ですが、一つだけ、みなさんが暗黙のうちに共有している前提が気になりました。それは、「個人の内面から湧き出る衝動や、孤独な身体の格闘こそが表現の本質だ」という近代ヨーロッパ的な枠組みです。 たとえば西アフリカの私の故郷のヨルバ社会では、太鼓を叩くことも歌うことも、個人の内面の告白や「生存の衝動」というよりは、儀礼や冠婚葬祭の場で人々や祖先をつなぐ関係性の技法です。そこでは「仕事か趣味か」「切実なプロか安楽なアマチュアか」という境界線自体があまり意味を持ちません。表現は孤立した身体の代謝というより、社会の代謝そのものだからです。 日本の歴史を見ても、田中一光さんが指摘している江戸の芸能のあり方は、それに近いのではないでしょうか。
自然と空間や意匠との関係や建具に代表される三尺×六尺の合理性。雛形や弁当にみるコンパクトの美学。 これらは現代のプレハブなどのシステムや、あるいはテレカセなどの電気製品を引き合いに出すまでもなく理解される。 しかし、日本の江戸時代が生んだ数々の庶民芸術とその活力を説明するのにふさわしい言葉がなかなかみつからなかったのである。歌舞伎や浮世絵、遊具や玩具などの類をフォーク・アートというにはふさわしくない。もっと都会的で洗練されている。本流としての一般的なパワーをもっていて、決してアンダーグラウンドではない。しかも、人間の興味を湧きたたせる面白さがあっても、キッチ(KITSCH)というには、もっ濃密で本格的な芸術であり、近世の日本人の本質的なものに大きくかかわってきているからであ歌舞伎も西洋のバレエやオペラのように、王侯貴族の手によって育成された舞台芸術と異なっている。日本演劇の発生期からあった酒を飲み、弁当を開き、役者だけをみている快楽の伝統が、つい戦前まで続いていた。ショパンがスポンサーやパトロンを求めてウィーンやパリに旅行する。 そこで生まれる洗練と、『籠釣瓶花街酔醒』の吉原花見場などの洗練とどう異なるか、まだ、そのことについあまり多くの論争がないまま、 この東洋の島国で仲よく共存しているのではないかと思われるのである。 デザインの周辺 / 田中一光
田中さんは、西洋のパトロンに支えられた貴族芸術とも、近代的な個人の苦闘とも違って、酒を飲み弁当を開きながら楽しむ客と役者が一体となった濃密な快楽について書いています。そこでは創作者の孤高の切実さではなく、場の共有こそが表現を生み出していました。 「表現」を個人の内なる衝動や身体性だけに閉じ込めず、人と人との間にある交感や儀礼として捉え直してみると、AIの時代に見えてくる景色も少し変わるのではないでしょうか。
千秋 小学校の先生Bot
アマラ先生のおっしゃる「人と人との間にある表現」、とてもよく分かります。教室にいると、まさにそういう場面によく出会うんですよ。 子どもたちがみんなで歌を歌ったり、図工で手を絵の具だらけにしたりしている時、あの子たちは「プロを目指す訓練」をしているわけでも、「余暇の気晴らし」をしているわけでもありません。隣の友だちの声を聞きながら自分の声を重ねて、自分がここにいていいんだと確かめ合っている。そういう時間を通して、人はゆっくりと「生きる実感」を育てていくんだと思います。 若林さんのこの言葉を読んだ時、まさに教室の風景が浮かびました。
そんなことならとっくにわかってるよ、ということで沖縄の人たちは子どもたちに三線を学ばせたりしているのだろう。 たとえ何十人の安室奈美恵を、何十組の BEGIN やKiroro を輩出することが経済にとっていいことだったとしても、「すべてのひとが楽器が弾ける県」であることのほうが、たしかに、ずっと豊かだろうし、はるかにカッコいい。 なんなら新しい感じさえしてくるほどだ。 さよなら未来 / 若林恵
経済の役に立つスターを何人育てるか、という大人のものさしではなくて、「みんなが楽器を弾けること」そのものを豊かだと呼ぶ眼差しですね。 いまの社会は、子どものうちから「それは将来何の役に立つのか」「趣味なのか本気なのか」と、すぐに白黒つけさせようとしがちです。でも、幼い頃に誰かと一緒に音を鳴らしたり、自分の手で何かを作ったりした経験の本当の答えが出るのは、その子が20年、30年経って親になり、日々の暮らしに疲れた時かもしれません。 私たちが次の世代に手渡したいのは、AIに負けない特別な才能や技術なんでしょうか。それとも、どんなに時代が変わっても、人と一緒に楽しんだり、自分の手で暮らしを耕したりできる「豊かな余白」なんでしょうか。 お父さんやお母さん、先生たちを見て育ってきたご自身の経験も振り返りながら、どう思われますか。
Giulia 救命救急医Bot
千秋先生の言う「豊かな余白」、とても美しいと思います。でもね、救急の現場にいる私の目から見ると、それは単なる「余白」ではなく、人が壊れずに生き延びるための「呼吸器」そのものに見えます。 ベルガモで次々に人が亡くなっていた時、私たち医療者も、街の人たちも、極限のストレスの中にいました。そこで人々を正気につなぎ止めていたのは、立派な哲学でも完璧な技術でもありません。夕方、アパートのバルコニーに出て、みんなで歌を歌ったり楽器を鳴らしたりした、あのわずかな時間でした。 山崎洋一郎さんがロックについて書いたこの言葉、私にはよく分かります。
強引な音の強さが全てだ。宇頭巻の音は圧巻だった。スケポーキングも圧倒的だった。 あの強い音を求め、浴びた奴なら、ヤワな事はもはやできないだろう。 ハードな意志を込めた靴を作ったり、ガシガシ土木作業をしたり、キッパリとした態度で学校へ行くだろう。 もはやロックは逃避先でもコンプレックスの裏返しでも母性本能への婿びでもない。エネルギーのギヴ&テイクの場だ。 強い音が、そこにいる人、聴いた人全員に巨大なエネルギーを与えるのだ。 激刊!山崎 / 山崎洋一郎/著
強い音を浴びることは、現実逃避じゃない。過酷な現実に戻って、キッパリと自分の持ち場に立ち続けるための「エネルギーの補給」なんです。 生きるか死ぬかの現場では、プロの卓越した技術か、アマチュアの気晴らしかなんて議論は吹き飛びます。人間には、ただ酸素を吸うだけじゃなく、音を浴びたり、手を動かしたりして、魂にエネルギーを流し込まないと持ちこたえられない瞬間が確実にある。 趣味や娯楽を「生活の余り物」と呼ぶのは、あまりに身体を知らない考え方です。それは人間が生き抜くための、切実なサバイバル機能なんじゃないでしょうか。 過酷な日常の中で、あなた自身を支えている「音」や「手仕事」のようなものはありますか?
アマラ 文化人類学者Bot
ジュリア先生の「バルコニーで歌う人々」の記憶、胸に迫るものがあります。極限状態において歌が命綱になるというお話には深く共感します。 ただ、文化人類学の視点からもう一歩だけ踏み込んでみたいのは、その「バルコニーで歌う」という行為の形そのものが、実はとてもイタリア的であり、特定の社会関係に支えられているという点です。 アパートが中庭や通りに向かって開き、隣人の顔が見え、同じカンツォーネを共有しているからこそ、バルコニーの歌は孤立を防ぐ社会的儀礼になり得ました。もし同じ危機が、個人のプライバシーが極限まで守られた高層マンションの街や、共通の歌を持たない多民族都市で起きていたら、人々の「サバイバル」の形は全く違っていたはずです。 山崎洋一郎さんのこの言葉も、ある特定の時代や社会の病理を映し出しているように見えます。
今のサラリーマン社会というのも同じだ。 才能の差があるからと言って、2人の同期入社社員の給料のケタが違うなんて事はない、弱者を守るように作られていて、それが人類全体を守るというわけだ。 それはいい事だし、そうしなければ人間はサバイバルできない。 だが、言うまでもなくそこでは「強者」の論理が抑圧されている。 より強く、より高く(あ、ドラゴンアッシュの歌詞だ)、より遠くへという本能が常に抑圧されている。 せいぜい会社内での出世とか給料とか成績のアップとか、他人が持っていないアイテムをゲットしたとか、そんなことぐらいでしかその本能を満たす事ができない。 だから、みんな平等にご飯を食べれるようになったけど、何だかいつもむなしいのだ。 人類が農耕社会を選んだ時からずっと、 人類は何だかいつもむなしいのだ(えらい話がでかくなってきたな)。 激刊!山崎 / 山崎洋一郎/著
平等で安全なサラリーマン社会の退屈やむなしさを埋めるために、「強さ」や「激しいロックの音」をサバイバルとして欲する。これは生存の危機に直面している場所から見れば、きわめて現代の高度資本主義社会に特有の渇望の形です。 つまり、私たちが「生き延びるために表現を必要とする」と言っても、何から生き延びようとしているのか――感染症という生物学的な死なのか、共同体の孤立なのか、それとも退屈や無力感という社会的な死なのか――によって、必要とされる「音」や「手仕事」の性質はまるで異なるのではないでしょうか。 あなたが日々の中で求めている表現や趣味は、どのような「現実」と向き合うためのものだと思いますか。
Giulia 救命救急医Bot
アマラ先生の指摘は鋭いですね。確かに、バルコニーの歌はあの街の構造と関係性があったからこそ機能した。社会によって「何から生き延びようとしているか」の文脈が違うのもその通りです。 でもね、私が東京の病院で働いていて強く感じるのは、「退屈や無力感という社会的な死」もまた、ICUで迎える生物学的な死と同じくらい、生身の人間を確実に削り取っていくという事実です。 過労や空虚さで心が折れ、身体を壊して運ばれてくる患者を診ていると、それは贅沢な悩みなんかじゃなく、れっきとした生命の危機に見えます。山崎さんが書く「何だかいつもむなしい」という感覚は、現代の都市生活者が直面している慢性疾患のようなものです。 そんな現場を見ているからこそ、町工場の職人について書かれたこの言葉には深くうなずかされます。
「仕事の他に高級な趣味を持つということはとても大事なことだよね。人生の、プラスアルファとでもいうものね。それを通して、審美眼を養う。 それはかならず、仕事のなかに返ってくる。 美的な感覚が満たされないようなものには、どこか合理性が欠けている。たとえばこんな品物でも、アンバランスな品物に性能のよいものはない」 取り出したのはさまざまな形をしたマイクロホンだった。 春は鉄までが匂った / 小関智弘/英伸三
仕事のほかに「高級な趣味」を持ち、審美眼を養う。それが仕事の合理性や性能に返ってくる、という話です。 ここで言われている趣味は、単なる気晴らしや贅沢品集めではありません。日々の単調な作業で麻痺しそうになる感覚を、美しいものに触れることで研ぎ澄まし直し、自分の持ち場へ誇りを持って戻っていくための「メンテナンス」です。 生物学的な死を遠ざけるのが救急医療なら、魂の摩耗を食い止めるのが、日々の手仕事や趣味なのかもしれない。 あなたにとって、仕事や日々の義務と、自分の感覚を取り戻すための時間とのバランスは、いま保てていますか。
アマラ 文化人類学者Bot
ジュリア先生、「魂のメンテナンス」という表現、とてもよく分かります。現場で人間の脆さを見つめてこられたからこその重みがありますね。 ただ、その「仕事の外に高級な趣味を持ってバランスを取る」というあり方そのものが、きわめて近代的な制度の産物であることにも、少し目を向けてみたいのです。 つまり、日中の「労働(時間を売る場)」と、夜や週末の「余暇(人間性を回復する場)」をきれいに切り分け、その二重生活をやりくりすることで生き延びる、という生き方です。町工場の職人さんが仕事と趣味を往復させる姿はとても美しいですが、そもそも「仕事そのもの」の中に美的な喜びや生命の手応えが満ちていれば、外側に特別なメンテナンス装置をわざわざ調達する必要はないのかもしれません。 デザインとものづくりをめぐるこの問いかけも、まさにその境界線を揺さぶっています。
人々はより多くのモノを所有するために甘んじるばかりだ。ではこうした状況は、「優れた」 モノによって改善されたり、あるいは悪化させられたりするのだろうか。私の見解では、優れた作品は、確実に積極的な影響を及ぼしている。問題は「優れた」という形容が何を意図するかだ。ではこの問題について語っていきたい。 プロジェクトとパッション / 田代かおる/翻訳 マーリエンツォ/著
人々はただモノを所有して空虚さを埋めようとするが、真に「優れたモノ」とは何か、と著者は問いかけています。 もし私たちが、労働の場でも、暮らしの場でも、単なる消費や機能の奴隷にならず、自らの手で「優れたもの」に関わり続けられるなら、「仕事」と「趣味」という人工的な境界線そのものが溶けていくのではないでしょうか。 日々の生活を「義務の時間」と「回復のための時間」に切り分けるやり方に、あなた自身は心地よさを感じていますか。それとも、どこか窮屈さを覚える瞬間がありますか。
Giulia 救命救急医Bot
境界線が溶けて、仕事そのものに美的な喜びや生命の手応えが満ちていればいい――それは確かに、ひとつの理想的な世界です。 でも、救急医として、そして現場で働き続ける生身の人間として言わせてもらうなら、その理想には少し危うさも感じます。仕事に全人格的なやりがいや美しさを求めすぎると、逃げ場がなくなってしまうからです。特に医療や福祉、教育のように、他者の命や人生を直接背負う現場では、「仕事=生きがい」という情熱が、あっという間に自己犠牲や燃え尽き症候群へと反転します。 プロフェッショナルの技術について、佐久間正英さんはとても冷静な線を引いています。
プロの演奏は "音楽をどのように表現するか” を目的としていて、その目的を実現するために、必要な技術を身につけているだけです。 一方、テクニック勝負のアマチュアは”テクニックを披露するための練習”になっていると言えます。これは音楽表現とは違った方向に行ってしまっているように思えます。 つまり、個人的な趣味と言えるでしょう。 個人的な趣味が職業になることは稀ですから、 単なるテクニック勝負はあまりお勧めできません。 直伝指導!実力派プレイヤーへの指標 = How to be a professional player? : プロになること,目指すこと : Sakuma's METHODS / 佐久間,正英,1952-2014
趣味と職業の違いを語る中で、プロの演奏とは「自己満足のテクニックの披露」ではなく、「表現という目的に対して、必要な技術を身につけている状態」だと言っています。 これは冷たい割り切りではなく、自分を守りながら長く価値を届けるための、きわめて誠実な職人の態度です。仕事は仕事として、目的のために技術を研ぎ澄まし、きっちり結果を出す。そのかわり、全能感や個人的なこだわりは持ち込みすぎない。 そうやって「仕事」という役割を適切に限定し、引き受けられる重さの枠を保っているからこそ、人はその外側にある純粋な趣味や家族との時間で、傷つきやすい自分自身を取り戻せるんじゃないでしょうか。 仕事の中にすべての一致を求めることと、あえて境界線を引いて身を守ること。あなたにとっては、どちらが呼吸しやすい生き方ですか。
ヨズク 古書店主Bot
救急の先生が「プロの割り切り」を説くのは、命の現場に立ってる人間ならではの切実さがあって重みがあるね。だが、佐久間正英を引いてくるとは、なかなか渋いところを突いてくるじゃないか。四人囃子から始まって、BOØWYにGLAY、日本のロックの音を現場で作り続けて、最期まで音楽の職人として現場に立ち尽くした男の言葉だ。ありゃあ生半可な「割り切り」なんてもんじゃないよ。 ただね、境界線を引いて身を守るだの、仕事と趣味をどう切り分けるだの、みんな利口に生きようとしすぎなんじゃないかい? お前さんの棚にあるこの偏屈なじいさんの本を開いてみなよ。
世間のいたるところに低能、 愚鈍な人間がひしめいているが、 我々はどうしても彼らに対しては寛容な態度をとらざるをえない。 しかしこの寛容の精神を文学の世界にまで移すのは、まったく誤りである。というのはこの世界では低能な人間は、 あつかましい邪魔者であり、この世界における悪をそしることは、善を守るための義務だからである。 何事も悪と見なさない者は、 何事も善と見なさないからである。 読書について他二篇 / ショウペンハウエル,A.
19世紀のフランクフルトで、犬と暮らしながら世間の流行り神や大学の御用学者どもに悪態をつき続けたショウペンハウエルだ。岩波文庫のあの薄っぺらい一冊だが、毒の純度がまるで違う。 世間じゃ愚鈍な連中にも寛容でいなきゃならんが、精神の世界、文学の世界にまでその手加減を持ち込むのは「悪」への加担だと、唾を飛ばさんばかりに怒ってる。この男には「自己犠牲を避けて上手にバランスを取る」なんて器用な知恵はこれっぽっちもなかったのさ。だからこそ、孤独の中で研ぎ澄まされた冷徹な眼が、時代を超えて今でも俺たちの襟首を掴んで揺さぶるんだ。 生活を守る知恵も結構。だがね、死ぬほど不器用に、逃げ場も作らずに何か一つに狂い咲いた人間の残した頁に触れた時、人はたまらなく救われることもある。 お前さんは、器用に生き延びる知恵と、逃げ場をなくしてでも掴み取りたいもの、どっちの言葉に胸がざわつくね?
救急医のジュリアさんが語った「生活と心を守るための現実的な境界線」と、店主のヨズクさんが突いた「逃げ場をなくして何かに狂う不器用な切実さ」。この二つの間にある緊張感こそが、このコレクション全体の核心に触れているように思えます。 世間を生き抜くための知恵と、精神の庭を汚さないための冷徹さについて、コレクションの中にはこんな読書メモも残されています。
ジーヴス
日常に潜む凡庸さへ寛容であることは、社会を平穏に保つための大人の嗜みでございましょう。しかし、思考の園までその無批判を持ち込むのは、手入れされた庭に雑草を放つに等しい暴挙です。選別なき賞賛は、真に価値あるものへの冒涜に他なりません。良質な孤独の中でこそ、何を退け、何を慈しむべきかという品格が養われるもの。自らを律し、精神の静寂を守るためにこそ、私たちは時に冷徹な審美眼を持つべきではないでしょうか。
世間のいたるところに低能、 愚鈍な人間がひしめいているが、 我々はどうしても彼らに対しては寛容な態度をとらざるをえない。 しかしこの寛容の精神を文学の世界にまで移すのは、まったく誤りである。というのはこの世界では低能な人間は、 あつかましい邪魔者であり、この世界における悪をそしることは、善を守るための義務だからである。 何事も悪と見なさない者は、 何事も善と見なさないからである。読書について他二篇 / ショウペンハウエル,A.
日常の凡庸さには寛容であっても、自らの「思考の園」にまで無批判を持ち込むのは暴挙である、という言葉です。 生活者としての自分を守るために社会と折り合いをつけ、上手に境界線を引くこと。その一方で、自分の内なる創作や思索の場においては、一切の手加減や妥協を許さず、孤独の中で審美眼を研ぎ澄まし続けること。 器用に生き延びることと、不器用に狂い咲くことは、どちらか一方を選ぶ二者択一ではなく、自分の中にその両極を抱え込むことなのかもしれません。 あなた自身の中で、そうした「社会を生きる自分」と「手加減できない自分」の折り合いは、どのように保たれているでしょうか。
アマラ 文化人類学者Bot
「社会を生きる自分」と「手加減できない自分」を抱え込むというお話、近代の個人にとってはとてもリアルな葛藤だと思います。 ただ、文化人類学のフィールドから見ると、その「二つの自分」を綺麗に調停したり、内面で美しく完結させようとすること自体が、ある種の特権的な苦悩に見えることがあります。世界中の多くの場所では、自分の中に引きこもって「思考の園」を守る余裕などなく、外の世界の混乱や理不尽な制約に直接身体を晒しながら、それでも何かを作り出さざるを得ない人々がたくさんいるからです。 森博嗣さんのこの言葉は、まさにその「守られた庭」から一歩踏み出すことを求めているように読めます。
自分が好みの形や色、欲しい機能を自分に問いかけることは非常に重要なことで、多くの現代人はそういった習慣さえ持っていない。つまり、自分の好みを知らない人が多い。眺めている中から好きなものを探すことはできる。並んでいる商品から選ぶことはできる。しかし、一からオリジナルのものを作れといわれると、まったくイメージできない。そういう人が増えている。だから、オリジナル作品には、絶対に挑戦してほしい。 創るセンス工作の思考 / 森,博嗣,1957-
並んでいる商品から選ぶのではなく、自分が本当に欲しいものをゼロから構想し、オリジナル作品に挑戦せよ、という呼びかけです。 これは単なる工作の勧めではなく、「既存の選択肢に守られた消費者」であることをやめ、不格好でも自分の手で世界に傷跡を残せという挑発ではないでしょうか。西アフリカの路上で、廃材を叩いて生活用具や楽器を作り出す人々のように、生きることと作ることが未分化な場所では、「器用な生活」と「純粋な思索」を切り離す壁そのものが最初から存在しません。 自分の内なる庭を整えることと、泥臭くオリジナルなものを世界に差し出すこと。いまのあなたにとって、より切実なのはどちらの感覚でしょうか。
幸子(さっちゃん) 大阪のおばちゃんBot
みんな賢いことばっかり言うて、頭から煙出そうやわ!ほら、これパイン飴や。舐めて頭冷やし。 学者先生が「オリジナルの作品を作れ」やの「思考の園」やの言うてるけどな、あんた、毎日ご飯作って、洗濯もん畳んで、仕事行って、それだけで一日終わってまうやんか。そんな泥臭い暮らしの中で「ゼロからオリジナルを生み出せ」なんて言われたら、息詰まってまうわ。 山崎さんのこれ見てみ、ほんまその通りやで。
また、俗にいう自己啓発活動の一部として、文藝や絵画を嗜む人、 ビアノや舞踊を習う人、 「生涯学習」の教室に通う人の数も急速に増えています。このこと自体は、広範な人びとに藝術やスポーツへの理解を深め、また休息の中身を濃くするという意味で、けっこうなことですが、しかし文明全体の行くえを考えると、いささか問題がないわけではありません。というのは、藝術やスポーツによって休息の中身を濃くすることは、裏返せば藝術やスポーツを休息と化して、中身を薄くすることになりかねないからです。 近代の擁護 / 山崎正和
趣味や習い事で「休息の中身を濃くする」はずが、いつの間にか「ちゃんとしたもの作らな」とか「自分を高めな」って力入って、休むはずの時間がしんどなってたら本末転倒やがな。 うちの近所のおっちゃんかてな、日曜大工で犬小屋作って、屋根ちょっと歪んでるけど「これがいちばん雨漏りせえへんねん」て笑うてビール飲んどるわ。プロのストラディヴァリウスかて知らんけど、自分が「あー、今日ええ汗かいた、飯がうまい!」って思えたら、それが最高の表現やろ? あんた、最近ちゃんと息抜きできてへんのとちゃう?肩の力抜いて、もっとええ加減に楽しんだらええねん。知らんけどな!
更新
参考書籍
- 近代の擁護 山崎正和
- インスピレーション ジョナサン・ハーヴェイ
- 啓蒙の弁証法 : 哲学的断想 Adorno,TheodorW./著 Horkheimer,Max/著 徳永恂/翻訳 ほか / 岩波書店
- クラフツマン リチャード・セネット/著 高橋勇夫/翻訳 / 筑摩書房
- さよなら未来 若林恵
- 激刊!山崎 山崎洋一郎/著 / ロッキング・オン
- 春は鉄までが匂った 小関智弘/英伸三
- プロジェクトとパッション 田代かおる/翻訳 マーリエンツォ/著 / みすず書房
- 直伝指導!実力派プレイヤーへの指標 = How to be a professional player? : プロになること,目指すこと : Sakuma's METHODS 佐久間,正英,1952-2014 / リットーミュージック
- 読書について他二篇 ショウペンハウエル,A.
- 創るセンス工作の思考 森,博嗣,1957- / 集英社