知ることと位置付けること
『認知アポカリプス : 文明崩壊の社会学』Bronner,Gérald,1969- 高橋,啓,1953- のブックレビュー
昨今の、「ドパガキ」等に代表されるSNS等の短期快楽中毒についての本書。 「きー抜くとついスマホ開いちゃってやべえっす、マジなんとかしたい」とか「うちのガキが、同」って方に是非お勧めしたい一冊。
ちな「スマホを断てば、デジタルデトックスで人生はすべてうまくいく!」なんて本に価値はない。 手っ取り早く「とりあえずデジタルデトックスすればええんや!」はむしろスマホ依存を悪化させる。断食で痩せたダイエットはリバウンド必至。 本書はそういう手っ取り早い結論を提案する本ではないです。まーまーいい値段と文字数。
バガボンドの槍術の達人おじーちゃん胤栄も言ってる。
どんな剛の者でも真剣勝負は怖い。 じゃが、その恐怖から目をそらさずに受けとめ、それを傍らにのけておくことができる。それが本当に強い者じゃ
どんな人格者でも眠れない夜にスマホを見たい欲は怖い。 だけれどもその欲を「ダメだから」で一律拒絶してるといずれ(欲に)負ける。 大事なのは「なぜスマホを見ちゃうのか?」を知ることであり、それを自分の人生(と人間の歴史)のなかに位置付けること。それが本当に強い者じゃ、にゃむ。
もうちょい現代的な意味で言えば。
手元にある言葉や概念が現実と齟齬を来たせば、不安や恐れは増していくことになる。 だから、認識や理解こそが、恐怖や混乱を和らげるはずなのだ。 「人生で恐れるものはない、恐れは理解されるだけのものだからだ」とは、マリー.キュリーの至言だ。 だから理解する、少なくとも理解しようと努めるととは必ず何かの役に立つ。
そういう感じ。 欲や不安に対して、初手で「禁止」するのは目を逸らすことであり悪手。個体としても共同体としてもそう。 まず 欲や不安 って必要だから存在してる感情。 なので受け止めるためにまずは理解する。なぜスマホのペラい情報に目がいっちゃうのか。
われわれが漠然と「先史」と呼んでいる時代のなかで起こった進化上の出来事が、今も受け継がれ、日常生活の一部を形作っているとしても、なんら驚くべきことではないのである。
まずは人間に刻まれてる本能から。
不安
不安は人類が生き延びるうえで不可欠な感情だが、-略- この感覚情報はそもそも潜在的に危険を教えてくれるからこそわれわれの注意を捉えるわけだから、それが前もって物語として組織された場合には、その危険に根拠があってもなくても、生物としての人体は顕著な反応を示すことを予想しなければならないのである。
生物である限り「死ぬ」は拒絶するし、そに繋がるような「危険」の匂いを察知したときに「不安」の感情が発生する。死んじゃったら何もできなくなるから「役に立ちそう」「楽しそう」よりも「不安」の情報が優先して処理されるのはしょうがない。 太古のサバンナで生き残るためには、「草むらがガサガサ揺れたとき、風のせいか猛獣のせいか」をじっくり論理的に考えている暇はなかった。 命関わる系の判断で、「たぶん風だろう」と楽観に振って猛獣だったら即死する。逆に、「猛獣だ!」と悲観に振って過剰にビビって逃げ出し、それがただの風だったとしても、ちょっと疲れるだけで命は助かる。 悲観側に振ったやつらがおれたちの祖先。
なのでおれたちの脳には「不安や危険の匂いを感じたら、考える前に行動(クリックや警戒)してしまう」という生き残りメソッドが刻み込まれてる。
「2029年に地球が滅亡する!?生き延びるための100の方法」 は流石にタップしないとしても 「あなたの個人情報が悪用されています!メアドと名前を入力して今すぐチェック!」 みたいな、情勢を考慮して作られた文章だとタップして入力しちゃいそうになる。
何なら冒頭でディスった 「スマホを断てば、デジタルデトックスで人生はすべてうまくいく!」なんて本の派生で 「スマホ脳の恐怖!現代人の6割はスマホ脳!?」とかも考えられる。 実際その不安が妥当で、マジで6割の脳みその特性に有意な変形が見られるかもしれない。 だが、そうだったとしても。
最近の睡眠学会で、男性サラリーマンの五人に一人が睡眠時無呼吸症候群であるという発表がなされている。 この研究を主導した教授の、「治療が必要な患者が、想定以上の高率で存在することがわかった」というコメントは、マスメディアにも紹介された。 この研究での睡眠時無呼吸症候群という診断はアメリカの学会の基準にそって行われたものなので、医学的には十分な妥当性がある。 でも、五人に一人ですよ。 五人に一人を病気と診断する医学的な妥当性とは、一体どんな妥当性なのだろうか。
医学的な妥当性と社会的な妥当性の間には距離がある。 「酒とタバコは人間を病気にする」の妥当な情報を知っていること、それとセットで「社会や人生の中でそれをどう位置付けるか」を持っていることが大事。 個人としてそれを禁止して長生きしたとして死ぬ前に「ああ、元気なうちに酔っ払ってみんなとワイワイやってみたかった。。」ってなるのも違う。 社会として「すべての酒蔵と酒屋を潰してしまえ」も妥当ではないでしょう。
正義
不安の次にスマホ画面でおれたちの目を釘付けにするのが「正義」と「怒り」。 悪いやつを罰したい欲。 これも肩寄せ合って協力せんと生きていけんかった時代の名残。
大昔、数十人規模のムラ社会で生き延びるためには、集団のルールを破る「裏切り者」や「サボり魔」を放置するわけにはいかなかった。裏切り者を野放しにすると群れが崩壊して全員死ぬ。 だから人間には、「悪事を働いたやつを見つけ出し、みんなで石を投げて制裁する、ないし追い出す」という行動を是とする価値観が刻まれている。
モリー・クロケットが書いているように、憤慨は炎であり、ソーシャルネットワークはそれに注ぐ油のような関係にある。 ごく平凡な取るに足らない出来事が重大な道徳的争点となり、誰もがそれに対して立場を表明する。一つ一つの出来事が個々人の道徳的一貫性と魂の美しさをひけらかす機会になるのである。
ここでも「それは悪いことだ」という妥当性と、それを糾弾するほどのことかという妥当性がある。 蟻を踏んづけることは悪いこと(少なくとも蟻側からしたら殺されてる)だとしても、現在スカイツリー建ててる鳶に、「東京タワー建ててる時、アリ踏んづけてたろ!」の糾弾は妥当ではない。 (じゃあその妥当性を誰が担保すんねや、は後ほど)
いずれにせよ、どのくらい道徳規範が侵害されたと感じると人は怒りに身を任せるか、そのレベルはかなり低くなったと言えるだろう。
ここまでは、人間の本能の話。 次は社会的な話。
豊かさと自由と民主主義
ウホウホ時代の本能を刻まれたまま、おれたちを取り巻く社会環境はここ数百年で激変した。 端的に言えば、人類は「豊かで自由」になった。
昔の人間は、起きている時間の大半を「今日食うものを確保する」「生き延びるために体を動かす」という労働に費やしていた。 それが技術や生産性の向上、医療の進歩や労働時間の法制化によって、生存のための必須時間は激減した。 人類は歴史上かつてない規模で、「脳を自由に使える時間(余暇)」という莫大な富を手に入れたのだ。 (まさに本書が語るのは「「脳を自由に使える時間」この使用について)
本来なら、これは先人たちが待ち望んだ夢の光景のはずだった。 生きる苦労から解放された脳の時間を使って、人々は教養を深め、芸術を愛で、知性と知識に満ちた素晴らしい世界を築くだろう──かつての啓蒙思想家たちはそう信じていた。 文字を読み書きできる人が増え、印刷技術と出版文化が広まることで、知の共有はどんどん進んだ。
偉大なひとが文章を残してくれれば、クソ田舎の農家の息子の高卒ですら、本を買って読むだけでそれを知ることができる。 南国の農家の試行錯誤が、お上の検閲なしに北国の農家に伝わり、もっと良い野菜が作れるようになり、農家も町人もハッピー! デンマークの家具職人と日本の家具職人の情報交換ができるなんて、それが上1割でなく下9割にも開かれているなんて、ワクワクすぎる。と思うでしょ?そんな良いことばっかじゃなかったんすよ。 ワクワクももちろん進んだが、それとは別の奇妙な事柄も進んでしまった。そのワクワク情報交換をかき消すほどに。
大半の人間が言葉を読み書きできないのはいいことなんだよ。文字というのは特殊な技能、言葉を残すのは重い行為だ。 扱うには一定の資質と最低限の教養が要求されるべき。誰もが簡単に文字を使えたらゴミのような情報で溢れ返ってしまう。そんな世の中、目も当てられん。
かつては社会に出して良い形にする/差し止めるをやってた「リリース編集者」みたいなのが居た、悪く言えば「検閲者」。 さっきの家具職人で言えば「よその国におれたちの木工加工技術を紹介するのに、椅子一つまともに組めねえオメーが何偉そうに書いとんじゃ。こんなもん出版させるわけねーだろこの下手くそが」とか。 完全に想像だけどそういうその業界を背負ってたつ親方が居たんじゃねえかな。
どうかこのことを認めください。偉大な天才たちが人々に教訓をたれることが正しいとすれば、俗衆は彼ら天才たちの教訓をうけいれなければなりません。つまり、だれもが教訓を与えることに手をだすとしたら、だれがそれをうけいれたがるでしょうか。モンテーニュが言っているように、びっこは肉体の訓練には不向きですし、魂のびっこは精神の訓練にはむいていないのす。でしかし、好学的な現代では、びっこが他人に歩き方を教えようとしている光景しか目に映りません。
令和の現在こんなこと言ったらそれこそ「インテリども偉そうに(怒)!人間みな平等なのだ、あいつ偉そうで悪いやつ!」の炎上する。
かつては「専門家」や「知識人」、あるいは現場の熟練工といったフィルター役が、何を公の場に出すべきかをある程度コントロールしていた。彼らが情報の妥当性を担保し、門番の役割を果たしていたわけだ。 しかし、民主化が進み、特権が解体されていくにつれて、人々のあいだには「誰かの教訓をありがたく聞く」ことへの耐えがたい屈辱感と、「専門家も自分も同じ一票を持つ人間だ」という強烈な平等意識が芽生える。
結果として、正当な権威やエリートに対する反発が生まれ、どんな粗野な意見であっても「自分の意見」として堂々と主張される土壌が整っていった。 知の民主化と解放は、人々に自由をもたらすと同時に、全員が全員に教訓を垂れ合って反発し合うという、奇妙な摩擦の舞台を用意してしまったのだ。
そして、この下地ができあがったところに登場したのが、インターネットとSNSだった。
クリック数回以上に論理の鎖をたどることもできないのなら、自分の考えや理想への攻撃はどんなささいなものでも我慢できるはずがない。 これは危険なことだ。 現代社会における知職や専門知の役割を弱め、民主主義社会で人々が互いに折り合いをつけてやっていく基本的能力を触むこのような短気の背後には、ソーシャルメディアの即時性による間違った平等の感覚や平等主義の錯覚がある。 わたしはツイッターとフェイスブックのアカウントをもっているし、あなたもそうだろう。つまりわたしたちの地位は同等だ、という考え方だ。
みんな違ってみんな正しいを加速させる
インターネット(SNS)時代のそれ
印刷技術と出版文化があったとて、まだそこには物理的な制約があった。 日帰りで行ける場所に自由に使える閲覧できる図書館があったとしても、物量の限界があった。
図書館に並ぶ本には、本棚のスペースという物理的な限界があったし、一般的な出版物の制約(紙代や印刷代)があるし、出版されるまでには編集者や校閲者という名の「門番」を通る必要があった。物理的なコストそのものが、情報の質を一定に保つフィルターとして機能していた。
だが、インターネットはその物理的限界に縛られない。 情報の保管コストも発信コストもほぼゼロになり、人類史上かつてない量の情報が、誰の許可もいらずに瞬時にばらまかれるようになった。 「本を読みに」「電車を使って」「図書館にいく」必要がない。 それは手元のスマホを開き、googleで検索ワードを入れるだけ、ないしChatGPTに口語で聞くだけで達成される。
このような情況は伝統的な情報管理者(ジャーナリスト、学術的な専門家など、これまで一般に公の討論に参加する社会的資格があと見なされてきたすべての人々の役割を弱めることになった。 この社会学的に重要な現象はあらゆる方面に影響を及ぼすものであるけれども、なかでももっとも顕著な影響は、世界を記述する任を負ていると自負するすべての知的モデル(もっとも粗野なものからもっとも洗練されたものまで)が全面的な競合状態に置かれるというところに現れる。今日では、SNSにアカウントを持っている人ならでも、たとえばワクチン接種の問題について、 国立医学アカデミーの教授に対して異論を唱えることができるのみならず前者は後者よりも多くの耳目を集めたと自慢することさえありうるのである。
それは、 封建社会(制度)を打倒するために体張ったフランス革命の人たちが作りたかった(取り戻したかった)、 Apple(ジョブズ)がすべての人に創造力を与えるために作りたかった、道具であり仕組み、 良き「自由と民主主義」と言えるのだろうか。 言えないでしょう。
(※以降ネタバレ) 本書のタイトルについて。
現状のこのザマから何が証明されるか
著者は言う、SNSでシェアする記事ですら59%がタイトルしか読まない。と。 Web記事読者一般のことをよく分かってる。
当web記事の硬めの文章をここまで読んでいくれた方にならネタバレしても良いでしょう。
われわれが今経験しているアポカリプス的状況こそ、人間の未来にかかわるすべての計画の基礎となる準備課程のように私には思えるのだ。この歩みを進めるには、まずは加入儀礼のようなものがある。ゴルゴンのメデューサに睨まれて石化する危険を冒してでも、自分たちのありのままの姿を見つめることである。すべての加入儀礼がそうであるように、天国をかいま見たいのなら、まずは地獄をくぐり抜けなければならない。
アポカリプス的状況。 教育コンテンツ、ハイコンテキスト娯楽へのアクセスが、ほぼ無料で享受できる現代に、それを使う人間がいない。 前述の不安や正義に溺れる人間しかいない。
スマホやネットのせいで人間が急にバカになったわけでも、狂ったわけでもない。 「豊かさと自由とネット」という規制緩和された市場ができたことで、先史時代からずっと変わっていなかったおれたち人間の「ありのままの性質(弱さや認知の限界)」の覆いが外れ、白日の下に晒されてしまっただけなのだ。
人類は「自由な時間と情報へのアクセス」さえ手に入れば、みんな勝手に哲学者や科学者になって素晴らしい理想郷を築くと思っていた。でも、いざそのフタを開けてみたら、そこにいたのは不安な煽りに怯え、他人に正義の石を投げつけ、猫の動画とスマホゲームに溺れる、先史時代のサバンナと何ら変わらないサルだった。
ピンクフロイドの歌詞が思い浮かぶ。 「教育なんかいらない。思想統制なんかいらない」。 だがちょっと見ただけで、真実は異なることがうかがえる。 テクノロジーを与えて一人にしておくと、教育系ソフトを立ち上げる子どもは少ない。 本当にやりたいのはゲームなのだ。
子供どころか大人もそう。 なんならそのことを隠して、自分を文化的で高尚な人間であると思い込む。 逆側では人間が積み上げてきた理論を学ことを放棄して無頼を気取る。 両者とも不安や正義を外向けにアピールするファッションでしかない。自分の中身がないからペラペラなファッションを着込むしかない。
では現代のこのザマを知り、引き受けて、どう位置づけて行けるか。 まずはこの流れを良きこととするなら。
肯定の極限:工学的なディストピア
前章までで「このザマ」つって否定的に捉えてきたけど、人間2.0への過渡期であり一時的な痛みが出てる、この流れの過渡期を超えたら良い感じに収まるのでは、説。 「不安」はないに越したことない。「正義/怒り」はどうか。
いつぞやTLで見た「貧しい者に許された娯楽は『怒り』だけ」って言葉、辛いけど真実だなーって思う。日々の辛さをかき消すだけの他のデカイ感情としては、喜びはコスパが悪すぎる。お金をかけなきゃ嬉しいことには出会いにくいし、お金をかけずに喜びを味わうには環境と才能が必要だし。
お昼の地上波テレビ、「貧乏人に許される娯楽は憎しみと怒りだけ」という感じでとてもつらい
今、過渡期故に 「正義側に属するための怒り」の向きさきがリアル事件・リアル人物になってて、向けられたさきの人がしんどくなっちゃう。意図的にやってそうなのは政治とかでその怒りの向き先をコントロールして敵方に向ける情報操作だけど。
だが、どの国もこの小さな島と本質は変わらんかった。形や手段が変わるだけで生贄文化は存在した。 ワシは愕然とした。犠牲になる人間がいてようやく成立するこの世界。 なぜそんな理由なき悪意が人間の設計に組み込まれているのか・・・
それをテクノロジーの力で架空の事件・架空の人物に向けさせることができれば、ノーコスト(悲しむ実在の人物が不在)で「正義側に属し共同体に対して有益である」という尊厳を配れる。
いまやもっとも重要な問題は、 富の再分配ではなく尊厳の再分配なのだ。 希望の再分配と言ってもいい。 ある個人に尊厳(=希望)を与えれば、別の個人が必ず尊厳(=希望)を奪われ地下室に堕ちる。 ぼくたちは、人類全員に尊厳を配分することはできない。- 略 - 「ぼくは、未来の地下室人は、 宗教的にではなく、工学的に救われるべきだと考える。 それが僕たちの希望だ」
この「工学的」を「ソーシャルメディア的に」と読み替えることは許されるのだろうか。 生きる意志が失われようとしている現代の個人の尊厳を、どうソーシャルメディアが教えるのか。 それは今後、大きな課題となるのではないだろうか。
現実に存在しそうなプロフィールの藁人形ソーシャルメディアアカウントをつくり。 意図的に不謹慎な不道徳な投稿をつくり、炎上させて、 日常のしんどい人たちのストレスのはけ口として機能させる。
「幸福」と「最大化」の設計がどうあるか、それを最適解として実装するならどうなるか。この辺に近い。
あと人間をたくさん生産して麻薬漬けにしてドラム缶に詰めて地面に埋めていくとかすればコスパよく人類の功利を上げれそう。 その方向で、地球という制約を外すなら、宇宙に快楽漬けの知性体を可能な限り敷き詰めて、空間を埋めていくのが理想ということになりそうですね。
肯定の極限はこの辺かな。 人類全員を架空の生贄とドーパミンのフィクションカプセルにぶち込んで、脳内を「正義」と「快楽」で満たしてやれば、争いも不満も数値上は完全にゼロにできる。工学的な最適化としてはこれが一番手っ取り早い。
きっしょいよねーー。映画「マトリックス」みたいな。 社会にうまく適合できない人間をフィクションに完結させて閉じ込める。閉じ込める側のコストが十分に低かろうと、閉じ込められる人間が仮にそれを「幸福」と見なしたとしても、きしょすぎる。
否定する:最低限の期待に応える必要がある
人文のこと素人なので、工学的に(ゆって工学も素人だけどwww)否定したい。 著者は、「今よりも世界を良くする」ために脳みそ使おうぜ。というのだが、
なぜならば、脳を思いのままに使える時間においては、すばらしいレクイエムやがんの特効薬が誕生する可能性もあれば、思いつくかぎり最悪の犯罪やどうしようもない文化的産物が出てくる可能性もあるのだから。この自由な脳の時間を、われわれは量子物理学を学ぶために使うこともできるし、猫の動画を見るために使うこともできる。
もう一つ手前で、人類の進歩が、 「未来世代の人間は現代の自分たちと同等か、それ以上の人間であるはず」 という前提が組み込まれているから。 猫の動画見て人生を終えることで満足することは否定せざるをえない。
現在のところ、我々が水素爆弾の魔物を閉じ込める魔法の瓶を作れると期待すべき合理的な根拠はない。とはいえ火薬の歴史を見れば、我々はかつて制御できないようにみえた魔物に出会い、それを支配し飼い馴らす方法を見つけた。事実、今日あらゆる自動車のボンネットの下にあるエンジンは、いくつもの砲身を束ねたようなもので、火薬に劣らぬ強力な気化性爆薬を使うが、その力を有用な目的へ封じ込めているのである。このことは、我々が高度に発達した金属加工技術を獲得したからこそ可能になった。
インターネットを作った人だってSNSを開発してる人だって、火薬を発明した人と同様に、危険性を知ってなお、この危険性は後世の人間が飼い慣らしてくれるはずだ、と預けてくれたはずなんだ。 本書のサブタイトルが「文明崩壊の社会学」だから著者も人文的ないみでそう言うことを考えていたのかもしれない。
受け取り側の現代のおれたちがそれを飼い慣らせなければ、先人の善意や期待への裏切りであり、おれたちだけではなく先人もろとも、未来から見たら「あの世代クソだったよね」となってしまう。 そんなことは癪でしょうよ。
じゃあ、この手元の爆薬をどうやってエンジンに変えていくのか。 やっぱり最初の話に戻るのだ。「知ること」と「位置付けること」。
手っ取り早くアプリを消したり、デジタルデトックスの合宿に行ったりすることじゃない。それは単に「爆薬から目をそらして逃げ出した」だけに過ぎない。 人間は不安に怯える生き物だし、悪者を叩いてドーパミンを出したい生き物だし、隙あらば猫の動画を見たいサルである。まずはそのみっともない設計図を、直視して「知る」ことだ。(著者が言うように)ゴルゴンの首を見るように、自分たちの脳の弱さを引き受ける。
われわれのさまよえる直感の膨大な力を飼い慣らすことなのである。 読み書きと計算を教えると同時に、自分自身の考えを持つことを教え、われわれの内にある認知の貪欲さにいちいち同調しないですむ機会を個々人に与えなければならない。自分自身のなかに潜む自己破壊を招きかねない部分は、われわれ自身の生存のためには手放すことができない部分でもあるがゆえに、無理やり抑え込むことは難しい。
不安や正義の感情の水源は止めれないから、それが流れる水路をうまく設計するしかない。
アプリ作って飯食ってる人間だからこそ、インターネットやGoogleやAIには感謝だし。 良い人間でありたいなってのを、品質としても存在の意味としても良いサービスを作ることで解消していきたいし、 作るのに忙しい時はSNSで誰かを批判することなんて思いもしない。
いつか死ぬという不安を、明日死んでも良いように脳みそぶん回して。共同体に対して有益な人間でありたいという欲を、良い仕事をするエネルギーに変えて。 今日も頑張っていきましょう。
参考書籍
- バガボンド. 6 井上,雄彦,1967- / 講談社
- アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治 吉田徹/著 / 講談社
- 認知アポカリプス : 文明崩壊の社会学 Bronner,Gérald,1969- 高橋,啓,1953- / みすず書房
- サイコバブル社会 林公一
- チ。-地球の運動についてー(4) 魚豊 / 小学館
- 人間不平等起原論 Rousseau,Jean-Jacques/著 平岡昇/翻訳 本田喜代治/翻訳 RousseauJeanJacques/著 ほか / 岩波書店
- 専門知は、もういらないのか トム・ニコルズ/著 高里ひろ/翻訳 / みすず書房
- テクノロジーは貧困を救わない 外山健太郎/著 松本裕/翻訳 / みすず書房
- ROPPEN-六篇ー(6) 宮下 暁 / 小学館
- クォンタム・ファミリーズ 東浩紀
- 中身化する社会 菅付雅信/著 / 星海社
- 闇の自己啓発 江永泉/著 木澤佐登志/著 ひでシス/著 役所暁/著 / 早川書房
- 発明 : アイディアをいかに育てるか Wiener,Norbert,1894-1964 鎮目,恭夫,1925-2011 / みすず書房