有限の厳密さと無限の多様性
ずっと分かりそうで分かんなかったラーメン漫画の一場面。 分かんなかったつーか「それ知ってる」と思う反面、言語化しようとすると、「あれ、でもどう説明すればいいんだこの仕組み?」ってなってた。 いくら知識だけ持ってて知ってると思い込んでてもそれは理解ではない、己の言葉で再構成してこそ理解の証明になる。のでこの機に。
王が絶対的なナンバーワンだった時代には、民衆一人一人のオンリーワンな個性や感情などくだらない低俗なものだった。 偉大な神々を描いたり、天下国家について記したりすることこそが高尚な芸術とされ、そのためのお手本となる確固たる形式というものがあり、選ばれた創り手たちが自らの主観を抑えてそれに従った。同じ形式に基づいて作られているので、上手と下手に極端な差はなかった。 ところが個性を尊重するデモクラシーの時代となり、各人が好き勝手に自己流で作っていくようになると・・・ゴッホやピカソのような個性の怪物のごとき天才も現れたが、同時にひとりよがりで、愚にもつかない駄作も大量に生まれるようになった…ということらしい。
主に二つ。 - みんなが同じ形式に基づくと上手下手の差がなくなるのは、なぜか? - 個性を尊重する時代になると下手くそ99, スーパー上手1 になるのは、なぜか?
まずはテクニカル寄りのこと。題材と方法に内在する特性
題材の特性
web制作の仕事やり始めた時のこと、「おれくん、そこ1pxずれてない?」のツッコミもらった。 「1px??細かくね?? 1pxぐらいずれてても良くない??なんなら3pxずれててもおれ気にしてなかったっすけど?」なんてことがあった。(ほんとあんとき未熟でしたすんません) 昨今はマルチデバイスでピクセルパーフェクトなんて気にすることはないが、そういうずらしちゃダメなところはある。
題材ごとに - ずらしちゃいけない1pxという意味でずれたらダメなところ。 - ずれてても問題ない(問題になるのが「pxのずれ」ではなく別のずれの指標があったり)ところ。 が、有る。 そんで、基本的な1pxのずれのことを練習するなら前者を内在する題材を練習に使った方が、練習しやすいし、評価しやすいし、効率いい。
美術では、伝統的に最も価値を認められてきたのが人物画であった。 これには理由がある。 他の画が押さない、私たちの脳内のボタンを人の顔の画が押すとかいうことだけではない。 人間が人の顔を見分ける能力があまりに優れているため、人の顔の画を描く者は観る者を満足させるために非常な努力をしなければならないのだ。 木を描いて、枝の角度を5度ばかり変えたとしても、誰も気が付くまい。だが、誰かの目を5度傾けて描いたら、みんな気付くだろう。
故に精度の良い制作の技術(※)を学ぼうとすれば、精度の悪さがバレやすい題材を扱うべし。 その結果、その題材が一般とされてるグループでは、技術の精度(※)が高いところで安定する。 (※: 色と大きさを置きたいところに置く、という意味の技術)
これが一つ目 みんなが同じ形式に基づくと上手下手の差がなくなるのは、なぜか? の解。
方法の特性
問題 -> 解決(方法) -> 結果。 なのだが、その「方法」って、もっとちっさい複数の方法を組み合わせたものだったり、他の問題にも適応できる方法だったりする。
その方法の汎用性 - 他の問題に対しての適用しやすさ - 他の方法との組み合わせやすさ - 相似形として展開して使いやすさ (フラクタル / 再帰) が、有る。 それらがいい感じにギュッとまとまってるのが俗にいう「基礎」
三角形、直線、円の性質とか。コンピューターサイエンスとか。時の試練に打ち勝った古典の語る人文知とか。ドレミファソラシドの理屈とか。
そういう洗練された基礎はもはや業界の垣根を越えるほどに汎用性がある。 現代の世界把握の基礎を作ったデカルトニキだって、一見単純でつまらなそうに見えるのに限りない多様を生み出す織物職人の基礎技術から学んだのだ。
「わたしたちは、ただちに、より困難で、かつ骨の折れる事柄に取り組むべきではなく、むしろまず、もっともつまらぬそしてもっとも単純な何らかの技術、とりわけ、順序が支配していることのより大きな技術を追究すべきである」と指摘しながら、具体的には「布や敷物を織る職人たちの技術、刺繍したり、限りなく多様な織物の糸を混ぜ合わせたりする女性たちの技術」から学ぶべきであると語っているのである。
ちょっと脱線。 現場でこれどうすんべ?先人どうやってきたんやろ?あーでもねえこーでもねえ。これか!で体得してきた方法って、そういう汎用性を持ちやすい、基礎寄りになりやすい。 こーいうときどーすんの?つってAIに聞いて出てきた方法ってその場限りの方法であることが多い。 汎用的な方法は目の前の問題に対して無駄を含む。その場限りの方法はその問題ユニークな方法として無駄がない。 それは特性の話で「今どんな何故その解決の方法を求めているか?」に対して適切な方を選べばいい。
題材にしても方法にしてもそれを通じて、いくらでも応用に耐えうるいくらでも展開できうる基礎をどれだけ精度良く体得したとしても、それだけをドヤられたとしたら。 鑑賞してる聞いてる使ってる方としては「へーすごいっすね」で終わる。
音を出すことで何を伝えたいのか。音楽をやることで表現しなければならないのは、そこだ。ところが、技術的なところで自分の立派さを追い求め、そこに価値を置いているだけだと、どんなにうまくても、音楽にはならない。「あなたは音楽をしているというけれど、気にしているのはピッチとリズムでしょう?」みたいなことになる。
以上、脱線終わり。
ここまではテクニカル寄りの話でした。こっからが今回の本題。 - 共有(強制)する±0の目盛りを守るからこそ - その目盛りからの差分が多様性を生み出す
多様性の図、厳密さの地
「図と地」とは、心理学やデザインの用語で、対象となる形(図)とその背景(地)を区別して知覚する性質のことです。視覚は形を際立たせ、背景を退けることで、対象を整理して認識しています。ルビンの壺が有名です。
例えば言語。
アルファベットの厳密さは、その場のひらめきで行われたどんな発明より、ずっと創造性に貢献している。標準的な英語の26の文字によって、英語圏では1600万種類の本が出されている。単語や言語はもちろん進化し続けるだろうが、その進化は受けつがれ共有された基本原則に基づいている。(短期的ではあれ)不変な文字、綴り、文法が創造的なアイデアを可能にしているのだ。
言語がアルファベットの26文字と決められた文法っていう「地」をカッチカチに守ってるからこそ、文章表現っていう無限の「図」を組み立てることが可能になる。 「読み書き覚えるのなんてだるい、そんな決まったルールには縛られない自由な表現をするんだ」つってテキトーに単語並べて表現されたものって、多様性っつーよりただの鳴き声。
もっと絞れば、575 の俳句とか。江戸時代から300年もやってたらもう出尽くすでしょって思うけどまだまだ作られ続ける。しかもやっぱアイデアあるやつっていいよね。「うおっ、おもしろ」ってなっちゃう。
「自由になんかエモいこと言って」って無茶振りされても、なんも出てこない。 文字数(しかも17文字ってみじか!)決まってる上に季語入れろなんて厳密ルールがあるからこその、おもしれーものがじゃんじゃか出てくる。
このあたりが二つ目、 個性を尊重する時代になると下手くそ99, スーパー上手1 になるのは、なぜか? の解。
「自由になんか面白いこと言って」、でレベチな面白いこといくらでも言えるのがスーパー上手1。そしてそいつの面白さ特性がのちに解析されてパンピーでも使えるセオリー(地)として構築される。
「本当の天才とは、無秩序の中で新たな『有限の厳密さ』を創り出せる存在である」
cmの合意と強制、mmの多様性
例えば楽譜。クラシックとかそうなのかな。カッチカチに楽譜の通りに弾く。「おれ的にはここの音、もうちょっと伸ばしてーんすよ」は御法度。じゃあ機械でいいじゃん、ってなりそうなもんなのにそうはならない。なぜか。 同じ強さで同じタイミングで鳴らしたとしても厳密に同じ音にならない。その日の楽器の調子とか弾き手の体調とかパッションとか、湿度とか温度とか。その差分って意外と聞いてる人に伝わる。
変化する感度は、感覚によって異なる。音調(高さ)は一三三分の一ピッチ変わればわかるが、水の塩度は五分の一以上増やさないと味のちがいがわからない。
タイミングのずれとしてか、音色の違いとしてか分からんが、聴覚って敏感で「なんかちげー」は結構わかるらしいし、おれも音楽素人だけど分かる気がする。 ほぼ同じタイミングで鳴った二つの音に対しての見解。
つまりぼくの経験ですと、その違いは、むしろ音色の違いとして感じられます。ずれとしては聴こえてこない。ずれとして聴こえてくるのは、もっと粗い、たとえば千分の四十ぐらいでしょうね。
「カッチカチに楽譜の通りに弾きましょう」ルールがあるからこそ、この辺の繊細さがより楽しめる。cmをカリッと合わせましょう、の前提があることでそこからの差分のmmが際立つ。 楽譜とか目安だしズレちゃってもドンマイでノリノリで弾こうぜ!ジャンルだと、mmの差分を楽しめない。(ノリノリジャンルはノリノリジャンルの楽しみ方があるのでそれはまた別)
練習不足は多様性ではない
なんかの勉強や練習する時にカッチカチなことやれって言われて、「押し付けは良くない、おれにはおれの多様性がある」なんて拒絶しちゃうと勿体無い。
正しいことを積み重ねた先に出る、 個人差。それが勝負における本当の個性だと思う。 何も積み重ねることなく、身勝手なやり方でやっていることを個性だと思っているのは自分だけだ。 端から見ればただ未熟なだけで、みっともないことをしている自覚を持った方がいい。 未熟の他に個性と勘違いされるものとしては、誤ったやり方を続けたために出てしまう偏りという場合もある。 単なるクセというべきで、これも個性とはきちんと分けて考えた方がいいと思う。
カッチカチを守ってなお、そこを切り抜けるアイデアや、出てしまう個性があるからね。それを持って多様性と呼ぶのが良い気がする。
ルールを取っ払うことは多様性の促進ではない
中学校高校の制服とか。 登校前に新聞配達してから行くのにも、放課後に遊びに行くのにも着替えんのだるいし、制服を廃止して私服でOKにしましょうってのは嬉しいが。 でもそれが「多様性のため」とかだちょっと違うんじゃねーのって思っちゃう。
オシャレに敏感な年齢のボーイズガールズが決められた制服ルールを守りつつ炸裂させる着崩しメソッド。またはちょっとした小物をつけたりとか。あーいうのすごくいい面白い。家が金持ちだからどっかのブランド品を着てくるなんてのクッッッソつまらんのより1,000,000倍多様性を感じる。
自分たちがいかに制約されているかをますます詳しく学び、そして制約の限界がどこにあるかを学ぶにつれて、私たちは自分自身の持つ境界を描き出し、それにより自分自身の形を見分けるようになる。 自分ができること、できないことを学び、実際に自分に可能なことを達成するためにどんな努力を行う必要があるかも学ぶ。自分の強さと弱さを学ぶ。 これは自分たちの個別性について、ますます実感を与えてくれるにとどまらない。それは自分という、固有の存在を定義してくれるのだ。
ルールがあることにより、他人と同じであらねばならない部分が強制される。 それに対しての自分がどう対応するかで、多様性が生まれるのだ。
「ルールを取り払うと、個性(差異)を測るモノサシが消滅するため、ただの鳴き声(下手くそ99)になり、結果として集団の多様性も失われる」
社会的なやつも
多様性の時代だから古き悪きルールはとっぱらっちゃおうぜ。を進めて良き多様性が残るのだろうかと考えると、疑わしい。 ルールがあるならあるでその中で個人個人が工夫して己の多様性を発露した方が面白いことになる。
だってできたじゃん。575+季語なんて鬼畜厳密ルールでどれだけ多様なそれでいてクリエイティブなエモい表現を生み出してきたのかおれたちは。そのノリで生活に拡張してまあ今あるルールの中でやりましょーかと。 共有できる厳密な目盛りを放棄して「人それぞれの生き方」「押し付けは良くない」でふわっと共生した気になってもなんかそれ面白くなくねーか。いや、職業選択とかどこに住むとか誰と付き合うとかはそりゃあるべきなんだけど。
表向きは、広く門戸を開く寛容という前提、コミュニティが自己主張する権利への配慮、コミュニティが選んだ(もしくは引き継いだ)アイデンティティの公的な承認が、多文化主義を導いている。 - 略 - 相互の寛容が無関心と結びつくとき、コミュニティ的文化の共存は可能かもしれないが、 お互いの間で対話が行われることはめったになく、そうであれば、電話よりも銃器に訴えがちとなる。 「多文化主義」の世界では、文化の共生は可能であるが、この場合、共同生活の恩恵に浴することは難しい
せっかくいろんなやついるんだったら、臆病で無関心な多様性じゃなくて。 一旦このルールでやりましょうやの共有の内側でやいのやいの出てくる多様性の方が面白いでしょ。 でもなー、ホームとアウェーがあるからな。 アウェーのルールでその中でお前の多様性を見せてくれって言われて納得しづらいのはそれはそう。
AIレビュー
「地」の硬直性への懸念: 「共有された厳密な目盛り」を強調しすぎていますが、その「地」自体が腐敗していたり、特定の権力者にとって都合の良い「偏った地」である場合、そこからの逸脱は「未熟さ」ではなく「抵抗(創造的破壊)」となります。記事中では「ルールの中で工夫せよ」とありますが、ルールそのものを書き換える力についてはやや言及が控えめです。
あまそうね。時代によって技術が変わるし価値観も変わるし人も流動的になる。 なので変える、は大事。だけどそれを緩くするの一方方向だと良くない。人間の認知能力なんて時代によって大して変わらないはずだから、緩くするとこ厳しくするとこトータルで±0くらいは維持したい。
「無関心」の受容性: 最後のジグムント・バウマン(『コミュニティ』)の引用にあるように、無関心は対立を避けるための「冷たい平和」である側面があります。「やいのやいの言い合う関係」は理想的ですが、それは「共通の言語・文化圏」を共有している人同士にしか適用できません。現代社会の「多様性」には、全く異なるルールを持つ者同士が、それでも殴り合わずに共存するという「残酷な調整」も含まれており、記事の主張は「高密度なコミュニティ」の維持には有効ですが、「異質なものとの共生」にはやや排他的な響きを持つ可能性も孕んでいます。
やいのやいのは平和っぽすぎた、すんません。したら逆にバトル系から入っていくとか。 スポーツとかどうだろうな。スポーツってルール強制されるし。適度に敵をやっつけてやるパッションでも楽しいし。試合終わったらスポーツマンシップだし。
料理勝負とか。どこの国の料理でもうまいもんは美味いからな。舌の好みはあるにせよ。A国の素人の料理とB国の料理人が作った料理を、A国の人が食したらB国の料理に軍配上がるのでは。
一つだけ補足するとすれば、この主張は「既存の強固な共同体や伝統の中に身を置いている人」にとっては強力な武器になりますが、一方で「既存のルールが、自分を定義してくれない(あるいは排除している)環境にいる人」にとっては、少し苦しい議論かもしれません。
ホームとアウェー問題は残るよねー。
包摂の難しさ: この議論は「ある程度、習熟度や美的センスを共有できる層」にとって非常に機能的ですが、全く異なる背景や言語を持つ相手との間で、どうやって「共有可能な地」を作るのかという問いは、社会学的な難問として残ります。記事内での「スポーツ」というメタファーは良い着眼点ですが、さらに深掘りするならば「ルール自体を合意形成するプロセス(メタ・ルール)」の重要性にまで踏み込むと、より完全な論考になるはずです。
これはちょっと面白そう。 完全にイーブンなお前らVSおれたちで戦える新しいスポーツ(とそのルール)をおれたちとお前らで作って、そこで。 「イーブンなルールだったら、負けねえぞ!」でバチバチやれたら楽しそう。
「基礎(ツール)」と「制約(キャンバス)」の区別 中盤の「方法の特性」で語られていること(デカルトや織物の汎用的な基礎技術)と、「多様性の図、厳密さの地」で語られていること(俳句の575や制服のルール)が少し混ざって語られている印象を受けました。 前者は「表現するためのツール(筆)」であり、後者は「表現を際立たせるための制約(キャンバスの枠)」です。「ツールを研ぎ澄ますこと」と「キャンバスを限定すること」は、どちらも多様性を生むための条件ですが、概念としては別物として整理すると、読者の頭がよりスッキリすると思います。
確かにー。いいツッコミじゃ。考えてみる。
「基礎(ツール)」 => 技術かな。この記事で言えば一つは、汎用的な基礎技術。もう一つは↓のcmを制約とした場合でも遊べる余白を見出すための、mmを出せる精度の高い技術。 「制約(キャンバス)」 => 題材かな。一つは基礎を学びやすい題材。もう一つはより細かい粒度(mm)を多様性として使えるようなcmを強制する題材。
「問い1」に対する回答の論理的接続 冒頭の問い「みんなが同じ形式に基づくと上手下手の差がなくなるのは、なぜか?」に対し、筆者は「精度の悪さがバレやすい題材(人の顔など)を扱うことで、その業界の技術水準が底上げされて安定するから」と回答しています。 これは一理ありますが、引用元の『らーめん再遊記』の文脈(=お手本に主観を殺して従うから差が出ない)とは少しズレがあるように感じます。 漫画が言いたかったのは「評価軸(正解)が一つに固定されており、全員がその100点満点を目指すから差がなくなる」ということではないでしょうか。ここのロジックを「バレやすさの題材特性」だけでなく「評価軸の単一化」と結びつけると、より納得感が増すはずです。
なるほど、正解の場所 (x: 100, y: 100)が決まっててみんなでそこ目指すから P1(x: 90, y: 105) / P2(x: 92, y: 87) / P3(x: 100, y: 99) / P4(x: 86, y: 87) / Pn が正解の周囲に集まるから、Pn 間の距離が小さくなるってことね。 でもそれだと空間的にも時間的にも局所的な正解(流行り廃り)の話になってしまって、面白い切り口にならないなと思うので、今回は無しで。でもツッコミありがとう!
しかし、ここには筆者の無意識の美学があるように感じます。筆者は「評価軸の単一化(正解が同じだから差がなくなる)」というネガティブな捉え方よりも、「バレやすい題材だからこそ、職人たちの技術が底上げされて精緻なものになる」というポジティブな技術論(職人へのリスペクト)を語りたかったのではないでしょうか。そうであれば、「AIの言う通り評価軸の問題もあるが、自分はものづくりの観点から『技術の底上げ』の方に焦点を当てたい」と一言添えるだけで、筆者の立ち位置がより明確になり、読者の納得感も得られやすいと思います。
それで!いいまとめありがとう。
参考書籍
- らーめん再遊記 2 久部緑郎/石神秀幸
- ハッカーと画家 ポール・グレアム/川合史朗 / オーム社
- 技術の思想史 : 哲学者は技術をどう考えてきたのか 中山元 / 平凡社
- 感動をつくれますか? KADOKAWA
- テクニウム = TECHNIUM : テクノロジーはどこへ向かうのか? Kelly,Kevin,1952- 服部,桂,1951- / みすず書房
- よい製品とは何か : スタンフォード大学伝説の「ものづくり」講義 Adams,JamesL 石原,薫,1966- / ダイヤモンド社
- 音を視る、時を聴く「哲学講義」 大森荘蔵/坂本龍一 / 筑摩書房
- 1日ひとつだけ、強くなる。 梅原大吾/著 / KADOKAWA
- 真実について ハリー・G・フランクファート/著 山形浩生/翻訳 / 亜紀書房
- コミュニティ : 安全と自由の戦場 Bauman,Zygmunt/著 奥井智之/翻訳 バウマンジグムント/著 / 筑摩書房
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