自由で平等で寛容な社会の生きづらさ

おれ

ここらで整理整頓をしたい。

先人たちがテクノロジーを発明して、いろんな迷信やしがらみを打破して、作ってくれた現在のこの高み、みんな気分良く生きてける自由で平等な社会。 なはずなのに、あんまいい感じで回ってない、何故?の整理整頓。

遡ればいくらでもありそうだけど、一旦の根っこの前提としてはエーリッヒフロム「自由からの逃走」がいいかな。

封建社会という中世的体制の崩壊は、社会のすべての階級にたいして、一つの重要な意味をもっていた。 すなわち個人はひとりとりのこされ、孤独に陥った。かれは自由になった。 しかしこの自由は1二重の結果をもっていた。 人間は以前に享受していた安定性と疑う余地のない帰属感とをうばわれ、経済的にも精神的にも個人の安定を求める要求をみたしてくれた外界から、解きはなされたのである。 かれは孤独となり不安に襲われた。
自由からの逃走 / Fromm,Erich/著 日高六郎/翻訳 エーリッヒ・フロム/著

生まれで身分固定されてる封建社会を壊したところから顕在化して、 そっから現代までずっと引きずってる問題。

自由になった、で、どうなった?

身分制をぶっ壊して、誰の指図も受けずに自分の人生を自分で選べるようになった。ここまではよかった。近代リベラリズムの理想では、自由になればなるほど人間は幸福になれるはずだった。 ところが、いざ自由になってみたら「自分で選んだんだから、結果は全部お前の責任ね」という自己責任のセット販売がついてきた。おまけに人間は、自分にとって何が一番ハッピーかを完璧に判断できるほど賢くも強くもない。 自由を手に入れた結果、待っていたのは幸福ではなく、選択の重圧と孤立だった。

しかし問題は、自由な自己決定という論理が自己責任と結びついていたこと、そして現実の我々の多くは個人として想定されていたほど適切な自己決定を行なう能力が高くもなければ、自己決定の帰結を引き受けられるほど強くもなかったということである。
自由か、さもなくば幸福か? / 大屋雄裕/著

自由 != 幸福 != 富の総量

!= どころか ≒ でもない、それどころか比例すらしない。 せめて比例すれば係数が1/10000 だとしても進めていけるのに。

自由を手に入れたはずの人間が幸福になれないどころか、社会にはなぜか怒りと憎悪が充満している。昔なら、政治のケンカといえば「富の分配」、つまり給料を上げろとか税金をどう再分配するかという、わかりやすいお金や物質の話だった。それなら妥協点も見つけやすいし、みんな一生懸命働いて作って稼いでみんなで豊かになろうぜ!で済むはず。

それは、戦後の中間層の没落と相前後して一九六O七○年代に政治の対立軸が変化したこと、すなわち「富の分配」よりも、社会や文化、個人と共同体との関係をめぐる「価値の分配」へと軸足が移ったためだ。
アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治 / 吉田徹/著
そこで問題を縁取っている最も過酷な条件は、世界の富の総量は「クリエイティブ·クラス」の「イノベーション」でいくらでも増やすことができるかもしれないが、世界の尊厳(=希望)の総量は決して変わりはしないという単純な事実だ。 ある個人に尊厳(=希望)を与えれば、別の個人が必ず尊厳(=希望)を奪われ地下室に堕ちる。 ぼくたちは、人類全員に尊厳を配分することはできない。
クォンタム・ファミリーズ / 東浩紀

「いくらでも増やせる」は言い過ぎ(SFだしね)だけど、封建社会時代からの現代を比較するなら、余裕で自由だし余裕で豊か。 現代は飢饉が一発来たら村一つ全滅なんてことないし、他の都道府県に移動したら処刑、なんてこともない。

そういう意味で、たりてないのは富ではなく尊厳。 分配では解決しない系。

ならばせめて「多様性の承認」や「リスペクト」を配りましょう、というわけだ。 「あなたらしさを尊重します」という言葉ならタダでいくらでも配れる。 「みんな違ってみんないい、自由で平等な社会になりました」とお茶を濁す。

「みんな違ってみんな良い」が火をつけた憎悪

一つ目は、「こんなに納税して結果を出しているのに、まだ奪うのか」という怒り。競争と淘汰、努力と自己責任のゲームの中で細々と生きている経営者・自営業者、これ以上の負担は理不尽な収奪にしか見えない。

所得や地位を与えてくれるのは、もはや自主独立ではなく、 国家や特権階級が与える保障である。 青年が結婚して一家を構えるのを可能にさせるのは、幸福を自ら築き上げる自身ではなく、 年金に対する何らかの権利である。
隷属への道 / Hayek,FriedrichA.von/著 Hayek,FriedrichAugustvon/著 ほか

二つ目は、取り残されたしんどい人たちの「おれたちが報われないのは、構造的な不平等が放置されているからだ」という怒り。かつてのように「真面目に働けば中間層になれる」という階段は壊れ、落ちていく不安の中で「努力不足」の自己責任を押しつけられる。生活の困窮だけでなく、尊厳まで奪われたことへの憤りだ。

— こんにちではすべての人が、どんなに下賎な者であろうと、自分にあらゆるチャンスがあったことを知っている……人びとはこう認めざるをえないのではないだろうか。 自分が低い身分にあるのはー昔と違い、チャンスをもらえなかったからではなく、自分が劣っているからだと。 人類史上初めて、身分の低い者は自尊心を巧みに支えられるものを失っているのだ。 —
実力も運のうち 能力主義は正義か? / マイケル・サンデル/著 鬼澤忍/翻訳

余裕のある人間が余裕のない人間(一つ目のギリギリな経営者/ 二つ目のギリギリな労働者)に「寛容であれ」と宣う。それが積年の乾ききった怒りの薪に着火する。

からの大炎上の三つ目。実質的な価値を生み出す努力はしないくせに、弱者救済を掲げて「いいカッコ」をし、利権や地位をかすめ取っていく補助金産業や文化エリートたちへの怒りである。

こうした層は、移民に労動を奪われていると口にすればレイシストのレッテルを、グローバルな国際競争を非難すれば怠け者との格印を押されることになる。 七〇~八〇年代の経済リペラリズムの再興は、高学歴で高所得の新たなエリートを生、政治リベラリズムは移民や女性の権利を増進する。 そのなかで、旧中間層は経済的にはもちろん、政治的にも社会的にも相対的な剣奪感に苛まれ、自分たちを「新たなマイノリティ」とみなしているというのがゲストの発見でもあった。
アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治 / 吉田徹/著

政治的な票ゲットの文脈では、この辺をトランプさんがうまく拾った説はある。

経済リベラルに反感を持つ労働者層と、政治リベラルに対抗的な価値を掲げるニューライトという「反リベラル連合」を生み出した。
アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治 / 吉田徹/著

うまく拾ったっていうか、間接民主制ってそういうもので、その国(共同体)に生きてるおれたちの不満を解消していこうぜってのが筋だから、普通のこと。

AI生成コンテンツ(Gemini)

ポピュリズムの台頭は、決して民主主義の故障ではない。自国の国民が抱える生活の困窮や尊厳の剥奪に対して、政治が応えようとするのは間接民主制としてごく自然な作用である。置き去りにされた共同体の構成員たちの怒りを代弁する受け皿が、既存の政治空間にはもはや彼しか存在しなかっただけのことなのだ。

ごめん、政治は勉強不足で申し訳ない。AIちゃんに書かせる(他んとこもだいぶAIだけど、ここだけは定義としてこれで良いのかわからん)。

経済と情報はグローバルに開ききっているのに、政治の意思決定と責任追及の場だけは「国民国家」というローカルな枠組みに閉じ込められたままだ。ここに決定的なズレがある。

ミクロすぎる話で再現性はないけど、リアルな話で言えば。

地方の町で自営業としてWebやアプリの開発を請け負い、東京や海外の仕事をこなしてなんとか自力で食い扶持を稼いでいる。その仕事場の一部を街に開き、本屋を営んでいるとする。 そこへ、税金で手厚く支えられた国公立大学に通っている学生がふらりとやってきて、本屋のイベントの場所代を見てこう言うのだ。(ちなみにおれは高卒) 「え、ここ借りるのにそんなにお金取るんですか? 駅前の公共施設とか地域おこし協力隊のカフェならもっと安く使えますよ」 「xx(よその国名)の美術館なら30歳以下は無料で拝観できますよ、店長も見習ってみてはどうですか?」 「(おれの国保の支払い用紙を見て) 払ってるアピールですかwww」

彼らに悪気はない。ただ純粋に、無邪気にそう口にしているだけだ。 本当は、「よっしゃ、わしも勉強して練習して良い仕事できるようになって、良いもん作って正しく儲けて、与えれる人間になったろ!」の良い影響を与えたかった。 だが現実は。真逆の「こんなコスパよく過ごせる場所があるのか、わしには既にそれだけの価値があるんやなあ」の影響を与えてきたのだと反省する。 もう大人として自立すべき年齢の他者に向けた善意が、「土耕して種蒔いて水やりを頑張ろう」という人間の意志を育てるのではなく、「コスパよく食べれる草原」の提供として草食動物化を促してしまうなら、その親切はもはや毒でしかない。

閉ざされていくコミュニティ

まずは上のエリートたちが閉ざしていく。そして前段のように中からも閉ざしていく。

エリートたちは寛容性や多様性を訴えるが、自分たちが住む場所は土地代の高 い郊外の高級住宅街であり、その住居費の高さによって、疑似的なゲーテッドコミュニティ(望まない人物を含む部外者による侵入や接触を防ぐための外壁で取り囲まれた閉鎖的な住宅地)に暮らしている。 寛容性や多様性の現実的なコストを支払うのは、仕事のバイも奪いあわされ、移民の流入で治安面での不安にも耐えなければならない、非エリート(=私たち)だ。 トランプはそう訴えたのだ。
矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る / 御田寺圭/著

本来、「寛容」とは異なる価値観や摩擦を抱えながらも、なんとか同じ空間に踏みとどまるための作法だったはずだ。他者と関わる以上、そこには不快感や我慢といったコストが必ず発生する。そのコストを互いに引き受けながら社会を開いていこう、というのが本来のリベラリズムの理想だった。

しかし、いつの間にかその寛容は「誰も傷つけてはならない」「不快なものを押し付けるのは悪だ」という論理へとすり替わっていった。摩擦を避けることが最優先された結果、「合わない人とは無理に関わらなくていい」「嫌な場所からは逃げていい」という処方箋が美徳として配られるようになる。

その先に待っていたのは、開かれた共生ではなく徹底的な断絶だ。

人は自分にとって都合のよい相手、コストを要求してこない安全な他者だけを選び取るようになり、少しでも摩擦を生む相手を「有害」として視界から消去していく。「他者を自由に選べる自由」は、裏を返せば「他者を自由に切り捨てる自由」に他ならない。

「より自由に他者を選べるようになった社会」を換言すれば「より自由に他者を拒否できるようになった社会」ともいえる。 現代社会では他者にアクセスしやすくなったことばかりがもてはやされているが、それと同じかそれ以上に、アクセスされなくなった他者が存在することは忘れられがちだ。 アクセスされなくなった他者は人びとの視界から文字どおり不可視化される。 「他者とつながりやすくなった社会」という文脈には、かなりの生存バイアスが及んでいることを考慮すべきだろう
矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る / 御田寺圭/著

そして、この「摩擦の回避」と「他者の切り捨て」を決定的に加速させたのがインターネットだった。

指先ひとつで他者を消せる世界

ネット空間の登場は、かつて物理的な距離や地縁によって縛られていた人間関係を解き放ち、誰とでも自由につながれるユートピアをもたらすはずだった。しかし実際に起きたのは、開かれた交流ではなく、徹底した選別の自動化である。

SNSのブロックやミュート、アルゴリズムによる最適化は、気に入らない他者や不快なノイズを指先ひとつで視界から消去することを可能にした。私たちは自分と同じ意見、心地よい言葉、リスクのない承認だけを並べた「無菌室」のようなタイムラインを作り上げ、そこに引きこもる。

長期間、ゆっくりと入念に建設を進めることが必要なコミュニテではなく、未来をたしかなものにするために地道な努力を重ねることが必要なコミュニティでもない。- 略 - しかしこちらは、本物と比べて、不快な「しつこさ」も差し出がましさもないことを売り物にしている。 - 略 - したがって、長期の関与をともなうネットワークがそこに形成されることもない。 それは、事実上「結果に責任を負わないきずな」なのである。 それは、人間のきずなが本当に大事になるとき、すなわち人間のきずなによって個人の資力や能力の不足を埋め合わせる必要が生じるときには、雲散霧消する傾向がある。
コミュニティ : 安全と自由の戦場 / Bauman,Zygmunt/著 奥井智之/翻訳 バウマンジグムント/著

従う不快さメンテする不快さを含む(故に長期的にあてになる)コミュニティを悪しきしがらみと断罪し。目先の全肯定コミュニティ(故に短期的でアテにならに)に浸る。

「つまらない」と感じることは単純に、チャット、YouTube、ファストフードからなるコミュニケーションと感性的刺激の母胎に埋め込まれた状態から離脱させられ、甘ったるい即時満足の果てしないフフローを一瞬だけでも遮られることを意味している。
資本主義リアリズム / マーク・フィッシャー/著 セバスチャン・ブロイ/翻訳 河南瑠莉/著

そんでそれはインターネットのコミュニティ(SNS等)を商売にしてる方からも都合がいい。

資本主義にとって、最も都合のいい消費者は誰か。それは、強固でリアルな共同体に支えられ、他者と助け合って満ち足りている人間ではない。摩擦を嫌ってあらゆる共同体を投げ出し、個室でひとり孤独に震えながら、承認と刺激に飢え続けている人間である。

バラバラにされた個人は、かつて共同体が無償で満たしてくれていたはずの所属感や自己肯定感を、すべて市場から買い戻さなければならなくなる。そこでプラットフォームが差し出すのが、アルゴリズムで無菌化されたSNSであり、指先ひとつで得られるいいねの即時承認である。

現代のエグさのまとめとしてはこんなもんかな。

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