文章から悪者をなくす。『兎の眼』と、私の五年日記のこと
『兎の眼』灰谷,健次郎,1934-2006 のブックレビュー
『兎の眼』を読んでいた。大学を出たばかりの新任教師と、なかなか心を開かない子どもたちをめぐる物語である。話そのものにも引き込まれたのだが、読みながら、私はいつのまにか別のことを考えていた。書くこと、についてである。 作中に、足立先生という教師が出てくる。「教員やくざ」と呼ばれ、教室の机を寄せて昼寝をしたり、職員室に酒を持ち込んだりと、素行はめちゃくちゃ。校長や同僚の評判はさんざんなのに、なぜか父兄には一目置かれ、子どもたちにはいちばん好かれている。自由に見えて、締めるべきところはちゃんと締める。それが全部、子どもたちのためなのだ。 その足立先生が、つづり方──作文の書き方を教える場面で、「文章から悪者をなくす」という、とっておきの方法を語る。
⚪︎したこと ⚪︎見たこと ⚪︎感じたこと ⚪︎思ったこと ⚪︎いったこと ⚪︎きいたこと ⚪︎そのほか そして、「したこと」の上に×をつけ、あとはみな⚪︎をつけた。
黒板に、書くことが並べられる。したこと、見たこと、感じたこと、思ったこと、いったこと、きいたこと、そのほか。そして足立先生は、「したこと」にだけバツをつけ、あとはぜんぶマルをつけた。したことを並べるだけではいけない、マルのついたことで文章を書くんだ、と。 でも、と先生は続ける。マルばかりでも、話は繋がらない。だからたまに、バツ──したことを入れてあげることが大事なんだ、と。 これを読んで、私はなるほどなあ、と妙に納得してしまった。最近この「したこと」をめぐって、思い当たることが立て続けにあったからだ。 ひとつは、小学三年生のころの文集である。一年の終わりに学年を振り返るというもので、いま読み返すと、これがもう、見事なまでに「したこと」の羅列だった。愚直に、四月から三月まで、起こったことをひとつずつ。同級生が転校すること、その時期が早まったこと、転校の次の日に課外活動があったこと……。出来事だけが、横一列に平らに並んでいる。バツしかついていない文章だ。当時の私は、たぶんそれを「書く」ことだと信じきっていた。 でも、あれはあれで正直だったのかもしれない、とも思う。子どもにとって、一日は等しく「したこと」の連なりで、そのなかのどれかひとつを特別あつかいする理由が、まだない。だから全部を、平らに並べる。 もうひとつは、最近はじめた五年日記だ。一ページが一日付の専用になっていて、同じ日付を五年ぶん書き込んでいく。将来の自分が読み返すと面白い、というのがミソの日記である。ただ、五年ぶんを一ページに収めるので、書けるスペースがとにかく狭い。やったことのまとめを書くと、たちまち日報みたいになってしまう。 どうしたものかと書き方のコツを調べると、「ひとつの場面や行動にしぼるといい」と言う人が多かった。そこで思い切って、最近の朝食――トーストに、浅草で買ってきた大学芋の蜜をかけるだけ、という話にしぼってみた。すると、それだけで二〇二六年の欄が埋まりきってしまった。しかも、あとで読み返すと、その朝のことがありありと浮かんでくる気がするのだ。 しぼると、書ける。たぶん私は、足立先生の言っていたことを、日記の狭いマスのなかで、再発見していたのだと思う。ひとつにしぼると、「したこと」の裏側から、見たこと、感じたこと。マルのつくものが、自然とくっついて出てくる。 小学三年生の私は、バツばかりを並べていた。大人になって、ようやくマルを書きはじめている。そこにときどき、ほんの少しのバツを混ぜると、話が繋がる。先生の言うとおりだ。 そういえば足立先生も、自由に見えて締めるところは締める人だった。マルとバツの匙加減を教えてくれたのが、よりによってあの先生だというのは、なんだか出来すぎている気もする。 しぼるのは、本当はちょっとこわい。ほかの出来事を捨てる、ということだから。けれど、捨てたぶんだけ、残したひとつが深くなる。あの文集の私に教えてあげたい気もするけれど、まあ、あの子にはまだ通じないだろうな……。
参考書籍
- 兎の眼 灰谷,健次郎,1934-2006 / 角川書店