水の様子はどうだい?
『虐殺器官』伊藤計劃/著 のブックレビュー
若い魚が二匹、並んで泳いでいたところ、反対方向に泳いでいく年上の魚と出くわした。年上の魚は会釈して「おはよう。水の按配はどうだね?」といった。 若い魚はしばらく泳ぎ続けたあとで、一匹がもう一匹を見て聞いた。 「水ってなんだ?」 デヴィッド・フォスター・ウォレス
「水ってなんだ?」 と聞かれても、魚には答えられない。 おれたち人間だって同じ。「水ってちょうど0度で凍って100度で沸騰するんだぜ、水すげえ!」とか言って、人間側が勝手に決めた「摂氏」という目盛りのほうをありがたがって、肝心の水そのものの手触りや温度を忘れて生きている。 日常の平和も、自由も、正義も、だいたいそんなふうに都合のいい目盛りで測られている。
そんな水についての小説、本書、虐殺器官。
小説初心者にも読みやすい
語られる近未来の舞台は2015 - 2022くらい、もはや過去。SF近未来ガジェットのワクワク感、アクション系のドキドキ感。基本覚えるのは5人だけ。
1. クラヴィス:主人公 (大国の暗殺者) 2. ウィリアムズ : 仲間 (同上、チャラめ) 3. ジョンポール:ラスボス (途上国各地で内戦を引き起こす悪者、言語学者) 4. ルツィア:ヒロイン (チェコ語の先生) 5. ルーシャス:中ボス (ジョンポールの仲間。監視社会でこっそりフリーダムバー経営してる)
主人公と仲間が悪行を繰り返すラスボス追っかけてたら、関係者としてヒロインが浮上、調査のために接触してみたらいい仲になったりして、駆け引きしてみたり、バトルしてみたり、最後には誰かが死んじゃったり。 ストーリーもよくあるやつで読みやすい。
あらすじで言ったらどこにでもありそうな小説である本書を、なぜおれはこれほどに好きなのか。例えば
自由
クラヴィス(主人公)とルーシャス(中ボス)の会話。
「労働はその個人の自由を奪うけれど、見返りにもたらされる給料で、さまざまな商品を買うことができる。かつては自分で畑を耕し、収穫し、狩りに出て獲物を捕まえなければならなかったその時間を、農家に代行してもらって、収穫済みの野菜や、解体済みの肉あるいは調理まで済んだ食べ物を手に入れることができる。ある自由を放棄して、ある自由を得る」
ここだけ見ると、「はいはい、分業の話とか貨幣経済の話ね」になっちゃうんだけど、 「クラヴィスが普段住んでる安心安全の先進監視社会から、ジョンポールを追いかけてたどり着いた、ルーシャスがこっそり経営してるフリーダムバーでの会話」 という物語のコンテキストから見ると意味が多面的なのよ。
ルーシャスにとっては「クラヴィス獲ったどー!」であり主人公視点の読者にとっては「クラヴィス危うし、逃げてー!」の場面。なんだが、淡々と話を続ける。なぜルーシャスはそんなフリーダムなバーを経営してるのか。お上に見つかったら超怒られるのに。
「若者はそうした偽りの自由を通過し、謳歌する必要があるんです。大人になって様々な決断を迫られる状況になったとき、みずから選ぶ自由がより高度な自由だと、リアルに感じてもらうためにはね」 「あなたは教育的な人なんですね」 「ある意味では、そうでしょう。ぼくは啓蒙と言われることを好みますがね」 - 略 - 正義の押しつけ、という人もいますが、コストを払っている以上、わたしはそれを、戦争をコミュニケーションとした啓蒙であると思っています」 - 略 - 「いいとか悪いとか、そういった価値判断は、いまの話のなかにはありません。啓蒙それ自体は、誰かの側からの独善的な啓蒙でしかないのですから」
与えられる自由よりも、何かを捨てざるを得ないような判断を下せる自由の方が、より高度だということ。与えられたため池の中で四方八方に泳ぎ回る自由よりも、急流の中でその場にとどまり続けるための泳ぎを生み出せる方が、高度な自由だと。それを、謳歌->気づき->驚愕->習得、のちゃんとした順序で若造共に伝えるためにこっそりフリーダム溜池バーを経営しているのだと。
その行為は褒められるような「教育」ではなく、むしろ独善的な「啓蒙」であるのだと。「戦争」も同じような啓蒙の一種であり。さらに、そのこと自体に良い悪いの価値判断は含まない、ただの定義だと。
かっこよくないすか、ルーシャス。すぐいなくなっちゃう中ボスなのに。 ジョンポールチーム(敵側)から見たらここでクラヴィス殺しちゃえばよかったんだろうけど、でもルーシャスは楽しかったんだろうなー、ちゃんとした話ができるレアいやつとの会話。
「いや、こういう話ができる人は、なかなかいないからね。残念だが、わたしはちょっと事務所に戻らなきゃいけない。今日は実に楽しかった。よろしければまたお相手してください」
「大将、こいつどうします?殺しちゃって良いっす?」の確認するための離席ではあるのだろうが。 「楽しかった、また話したい」これはルーシャスの本心から出たコメントだと思う。 もし自分が敵(ジョンポールの仲間)だとバレたらこいつ(クラヴィス)は2秒後にはおれを殺してるかもしれないけど、そんなことよりこいつとの楽しい会話を1秒でも長く刻みたい。 そのヒリヒリ感の中で語られる、自由について啓蒙について。読者として「押忍、聞くっす」ってなっちゃうよね。
そんな自由と隣接するとこで言えば
罪
暗殺を日常の仕事とするクラヴィスに対して、虐殺内戦クリエイターのラスボスが語る。残酷さとは。
「食品工場の労働者が手袋をするように、きみたちは心に覆いをする。というより、心に覆いをすることを許す。他者、それも幼い命に対して無感覚になることを、自分に許す。それはある意味で、子供を殺すことそのものよりも、ずっと残酷だ」
殺すことそのものと、殺すことへの罪悪感を消去する理屈を作り上げること、その理屈を自分の判断に適用すること、そんなことは考えたくない知りたくないと目と耳を塞ぐこと、どれが残酷だろうか。
あるいは、「日用品とか100均でいいし、服なんてシーズンごとに買って捨てるファストファッションでいいすよ、そんなことよりも社会貢献に自分の時間と金使いたい、自分、清貧に生きるっす!」であればどうだろうか。 その日用品が100円で買えることはどういうことか。その服がその安さで買えることはどういうことか。調べたりするんだろうか。水のように空気のように存在しているそのものことの、その起源を。
「なのに誰も、自分の好きな履歴しか見ない。自分らの生活を支える飛行機や作業機械の人工筋肉が、どんなに悲惨な場所で生産されているかなんて、知りたくもないというわけだ」
調べれば分かる悲惨さを調べずに、そんなこと考える暇がない忙しいからで蓋をして。悲惨な環境で生み出されてるその日用品を使い続けながら、その悲惨な環境を生み出している企業に「環境を破壊し、労働者を搾取する悪いやつだ!」と石を投げて生活するおれたち。なんと罪深いことよ!
(※ここから核心のテーマに触れます、まだ本書読んでない人はここで終わり!)
地獄の泉から水を引く配管工
水中でしか生きられない自分らの生活がどんな地獄の泉から供給されているのか。それを知ってしまったのなら、どうするか。
地獄の泉を掘り続け地獄疏水をメンテナンスしてるジョンポールという配管工に対しての姿勢はどうあるべきか。 登場人物たちはそれぞれの答えを選択する。 4者4様に、選択する自由を行使する。
ジョンポール
「わたしは目を見開いたまま、完全に正気で、その選択をした。わたしは悔いていない。-略- 自分にできることを知ってしまったら、そこから逃れることはできないよ」
ルツィア
みんな、知る必要がある。知る責任がある。本当の意味で自由でいたいのなら本当の意味で自由な国でありたいのなら。自由の責任を背負う必要がある。選んだ結果としての自由を背負う必要がある - 略 - そういった人たちの死の上で、安穏とした生活を送っておきながら、目をつむっていたことになる。それだけは絶対に、許されないことだわ
ウィリアムズ
「モニータと赤ん坊のためだ」ウィリアムズは力強く断言し、「この世界がどんなにくそったれかなんて、彼女は知らなくていい。この世界が地獄の上に浮かんでいるなんて、赤ん坊は知らないで大人になればいい。俺は俺の世界を守る。
クラヴィス
ぼくは、それをできるだけ音楽に似せようと努めた。 唱うように語ろうとした。- 略 - これが祈りであることに、これが歌であることに、だれかが気づいてくれればいいな、と思いながら
最後、クラヴィスの出した結論。 先代のジョンポールの正当継承者に成り、先代の意思に反して、先代が守ろうとした「水の中で生きてきた自分たち」を裁く自由を行使する。
自由とは、選ぶことができるということだ。 できることの可能性を捨てて、それを「わたし」の名のもとに選択するということだだから、ぼくは罰せられるべきだ。
感情をマスキングされ、痛覚も罪悪感もテクノロジーで麻痺させられていた兵士が、最後に求めたのは救いでも正義でもなく、「罰せられる権利」だった。 なぜクラヴィスが世界を地獄に落としてまで罰を求めたのか。それは感情調整によって「殺意」すらも自分のものではなくなっていたから。
「だが、この殺意がぼくのものでないとしたら - 略 - しかし、この殺意が虚構だったとしたら、ぼくの殺意でなかったとしたら、ぼくは罪を失ってしまう。 生の実感を得るために受け入れた罪がぼく自身のものでなかったとしたら そのとき、ぼくの「生の実感」のすべては嘘でしかない。 お前が殺したのだ、と誰かに言ってほしい
誰かの敷いた安全なレールの上で無罪のまま生かされるくらいなら、世界を地獄に叩き落としてでも、その結果を「わたし」の名のもとに引き受ける。 一般的に言えば最悪な結論(具体的に何をしたのかは、ぜひ本書を読んで)を。おれはとても美しいと思う。
「美しい」と感じるのはなんなんだろう。長い時間をかけ磨き上げた技術や誠実さの干し草の山に紛れた、自然発火して全部をだいなしにする狂気の一針のような何か。ちょっと話飛ぶけど、ある家具屋さんの仕事観の話。
「ちゃんと時間と手間をかけてメンテすれば神様宿るんすけど、でもそんな時間かけてたら嫁とガキンチョ食わせていけないですし、綺麗そうに見せとけばまあまあ売れちゃうし、どこをどうバランスとってどーしよっかなーってずっと考えてたんすよ。でももうやめたんすよそういうの、おれはまず家具をちゃんとしようって。それちゃんとしてから他のことを考えようって。そっから先ってもう思想とか哲学の話になっちゃうんで」 うろ覚えだけどそんなこと言ってた。
いろんなこと考えて、多方面に守りたいもんや残したい価値観あって、一生懸命そのことの練習はしたけども全部は取れず、それでも試行錯誤してなんとかかんとか悪くないところに納めるポイントは見つかったんだけど。 でもどうしてもそのポイントからズレるとこを選びたくなってしまい、選んでしまう、もうしょうがない。
誰よりもそのことに潜り理解しそれを作り出し、完全に正気を保ったまま、誰から強制された訳でもなく、「わたし」の名の元に狂気の選択をする。そんな自由の行使。
その美しさたるや。 そういう美しさを伝えるための表現方法の一つが「小説」。
定義ではなく物語を通して。
自由とは、罪とは、自分らの普通を支えてるものとは(せいぜい、農家さんは大変だ、くらい) 何か。どれも 2,000文字くらいの定義で語りたくなってしまう。 おれが普段読む小難しそうな本は大概そういうことを語るけれど。
それで語られた定義群(例えば本) a,b,c,d.....etc からおれたちは読者は「aの本が言ってる定義が正しい、いやbの本の定義が正しい、」なんて定義をごちゃごちゃしがち。でもあれ意味ない。どこにも辿り着かない、ただ喧嘩して終わりになってしまう。最高つまんない。それはなぜか。
- 「xとは何か」で定義しようとする から。
では本書のような良い小説ではどう伝えるか - その物語の中では「どんな事柄をxと呼ぶか」
前者はあらかじめパッケージ化された完成品の答えであり、思考の終着点を与えようとしてくる。「xとはこうですよ」と。「それに同意すれば仲間ですよ、安心して良いですよ、正しいですよ」と。脳みそ閉じられる感じする。 不安な人間ほどホイホイついて行きたくなる。
後者は固定化されない解釈の余白であり、生きた思考のプロセスそのものだ。 どこにでもありそうな小説の物語の中に埋め込まれた、人類がずっと戦ってる、自由とか罪とか社会の安定とか少し広く大きいことの解釈の提案。脳みそ開かれる感じする。
定義というにはあまりに抽象的な、他の要素群との位置関係だけが物語の中にそっと配置される。読者はその配置を手がかりに、自分の頭でその輪郭を探り、考えざるを得なくなる。
答えをパッケージにして差し出すのではなく、読者の思考を開き、可能性の海へ放り出すこと。これは、社会学者のピーター・フレイズがSFと未来学の違いについて語った姿勢ともそのまま重なる。
サイエンス・フィクションと未来学の関係は、社会理論と陰謀理論との関係に等しい。つまり、前者は後者よりもはるかに豊かで、誠実で、より慎ましい企てなのである。 - 略 - 実現の見込みではなく可能性を考察することの重要性は、それによってわたしたちの集合的行為が中心に位置づけられる点にある。いっぽう、確固たる予言をなすことはただ、受動性を促すことにしかならない。
確固たる正解を予言して読者を受動的にさせるのではなく、物語という架空の可能性を通して、おれたち読者の思考と行動を揺さぶること。小説というひとつの物語の登場人物個人から、おれたちの世界に共通する一般や普遍を考えさせるように促される。これこそ、SF小説の破壊力なのだ。
あらすじに還元されないもの
なぜ小説なんて長々とした物語が必要なのか。もっとあらすじだけに絞って箇条書きしてくれれば、わかりやすく読者の時間も短縮できるのに。 映画を倍速で見るタイパ世代、意味として解剖し、自分用に構築する、その過程でいろんなもん取りこぼしてそうなのがもったいない。
物語を理解しやすい「意味」に還元すると消えてしまう匂いがある。 本書でジョン・ポールが使う武器もまた、その延長にある。 人間は頭だけで生きている高尚な存在ではなく、遺伝コードによって組み上げられた「肉の塊」にすぎない。心臓や腸がそう造られているように、心だって特権的に自由なわけじゃない。だからこそ、理性を素通りして肉体や無意識の深い層に直接届いてしまうコードが存在する。
クラヴィスが捉えたジョン・ポールの言語観
音は意味をバイパスすることができる、ぼくらが語る言葉の下に潜むもの。 ぼくらが日常的に言葉から掬い取る「意味」をあざ笑うレイヤー。 ジョンポールが語っているのは、そういうことだ。 言葉にとって意味がすべてではない、というより、意味などその一部にすぎない。音楽としての言葉、リズムとしての言葉、そこでやり取りされる、ぼくらには明確に意識も把握もしようがない、呪いのような層の存在を語っているのだ。
自分一人の現実世界に閉じ込められてるおれたちが、限られた言語を限られた文法に従って他人になんかを伝えるときに、伝わっているのはタイパに最適化された「意味」だけじゃない。 「理屈としては理解できるけどピンとこない」とか「理由はわからないけれど身体の奥底がざわつく」という感覚。音やリズム、配置されたエピソードのうねりが、理性という検閲官をバイパスして、肉の塊としてのおれたちの感情モジュールに直接アクセスする。呪いであり祈りのような匂いも一緒に流し込まれる。
著者は「自由」や「罪」の匂いをそういうレイヤーに乗せて読者に伝達したかったんじゃないかな。
一般に「アイデア」や「考える」ということもそのレイヤーに属する。何かアイデアを得るためにそのレイヤーに出かけていって、制約と意味と目的ををドロドロに溶かして、ぐるぐると掻き混ぜてギュギュッっと絞って、出す一滴。 それを筆者が現実世界に顕在化したのが、本書。冒頭で書いたようにあらすじだけ語るとなんも難しいこと書いてない、むしろ読みやすい構成なのに、読んでるといつの間にかあっちのレイヤーに引きずり込まれる。 著者の技術、文章力、小説力、素晴らしき。
誰かが言っていた、水のような層と定義の間。
水ってちょうど0°で凍って、ちょうど100°で沸騰するんだぜ、水すげえ!
すげえのは水という最大公約数に近い物体に「摂氏」という目盛り0,100 を定義した人間の上手さ。 水(日常の平和)がどんな地獄の泉から来ているかを知らずに泳いでいるおれたち。そして、その水を「0度と100度」という分かりやすい定義で切り取り、分かった気になっている。
「摂氏温度」も「自由」も「罪」も「責任」も、そう定義しとけば便利だからそうなってる。でも水の中に入って-273°から + 273° を経験してみたら、「あれ、別に0°と100°いうほど重要でも固定でもなくね?」ってなったり。 その水だと思ってたものが誰かの血でできていることに気づいたり。
便利に使える現実の定義を確認してメンテするためにも、時々は小説という一瞬で凍り一瞬で沸騰する水中世界に入って、脳みそ開くのも大事。 登場人物にはそれぞれの人生があり、それぞれの自由を行使する。読んでるおれたちは物語全体を通してその定義を考えることができる。
小説を読むときは、意味に最適化されたタイパの価値観のままだと、その深い水中レイヤーには入っていけない。 パッケージ化された摂氏という自由度の目盛りを捨て、物語という濁流に身を投げたとき、初めておれたちは自分がどんな水の中で泳いでいたのか、その冷たさと匂いを知る。
本書を読み終えたとき、この問いかけへの答えは変わるだろうか。 水の様子はどうだい?
参考書籍
- 選択しないという選択 キャス・サンスティーン/著 伊達尚美/翻訳 / 勁草書房
- 虐殺器官 伊藤計劃/著 / 早川書房
- 四つの未来 ピーター・フレイズ/著 酒井隆史/翻訳 / 以文社