自由線、服従行き特急

『自由からの逃走』Fromm,Erich/著 日高六郎/翻訳 エーリッヒ・フロム/著 のブックレビュー

おれ

始発:封建谷を出発した自由列車

「その表現は傷つく人がいるかもしれないので、やめましょう」

昨今のポリティカル・コレクトネスをめぐる空気に、どうにも拭えない違和感がある。なるべくフェアにやろうという姿勢自体には共感できる。悪しき過去から脱出し、より良い社会を目指そうとする善意もわかる。けれど、いま私たちが立っている現在地は、少々行き過ぎてはいないだろうか。

どこかで見たような既視感があると思ったら、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』に書かれていたあの光景だった。

われわれはドイツにおける数百万のひとびとが、かれらの父祖たちが自由のために戦ったと同じような熱心さで、自由をすててしまったこと、自由を求めるかわりに、自由からのがれる道をさがしたこと、
自由からの逃走 / Fromm,Erich/著 日高六郎/翻訳 エーリッヒ・フロム/著

かつての人々は、仕事も土地も配偶者もお上に決められ、逆らえば処刑されるような「封建谷」で暮らしていた。そこから抜け出すために、乗客たちは手を取り合い、善意を動力にして「自由列車」を走らせたのだ。

だが、隣近所の乗客みんなで自由線に乗り込み、意気揚々と旅をしていたはずが、いつの間にか乗客同士が監視し合い、マウントを取り合う場所へと運ばれてしまってはいないだろうか。不自由から逃れたはずの列車が、なぜ別の不自由へと向かってしまうのか。その運行ルートをたどってみたい。

第1の分水嶺:不自由山を越えて自由平野へ

お上の支配を脱した列車が最初に直面するのは、過酷な「不自由山」の登坂だ。

この山を登るとき、乗客たちは一致団結する。信仰の自由を求めてアメリカ大陸を目指したピルグリム・ファーザーズのように、重税と理不尽に耐えかねて蜂起したフランス革命の戦士たちのように。「おれたちの自由列車を走らせ、なんとしても生き延びるんだ」という善意と連帯感が、列車を力強く押し上げる。

そうして難所を越え、たどり着いたのが広大な「自由平野」だった。

ここは素晴らしい新天地に見えた。何を作り、何を売り、誰と生きるかも自分の意志で決められる。お上のためではなく、隣人のために腕を振るい、共に豊かになっていけるはずだった。

ところが、山を降りた乗客たちを待っていたのは、思いがけない苦い現実だった。

お上の決まりに従うだけで精一杯だった頃には見えなかった「差」が、次々と露わになる。自分が良いと思うものと、隣人が求めるもののズレ。求められる才能や富を持っている者と、それらを持ち合わせない自分の情けなさ。同じ苦難を乗り越えてきた仲間だったはずなのに、自由になった途端、埋めようのない格差と屈辱が立ち現れてくる。

どのような絆からも自由であるということと、自由や個性を積極的に実現する可能性をもっていないということとのズレの結果、ヨーロッパでは、自由から新しい絆への、あるいはすくなくとも完全な無関心への、恐るべき逃走が起った。
自由からの逃走 / Fromm,Erich/著 日高六郎/翻訳 エーリッヒ・フロム/著

自由を手に入れたはずなのに、個性を十全に発揮する術を持たない人々は、途方もない孤独と無力感に突き落とされる。こうして快適だったはずの自由平野を走る列車は、静かに二つ目の分水嶺へと向かい始める。

第2の分水嶺:不平等山と、善意の暴走

自由平野を抜けると、線路は再び登り坂にかかる。二つ目の分水嶺、「不平等山」だ。

ここでも列車を動かしているのは、乗客たちの善意だ。だが、その善意が向かう先が、登坂のときとは決定的に違っている。自由に行使された結果として生まれた「差」を前にして、傷つき、悲しむ乗客たちが出てきたのだ。

「同じ不自由の辛酸をなめた仲間なのに、なぜあいつだけが自由を使いこなせるのか」 「なぜおれたちは、こんなにも惨めな思いをしなければならないのか」

そのとき、誰かが言い出す。「そういえば、やたらとベースが上手い奴が一人いるな。あいつのせいで、他のベーシストが客を集められずに泣いているんじゃないか? 上手なあいつを排除すれば、泣いている100人の仲間が救われるのではないか?」

ここから雲行きが怪しくなる。

車掌が提案する。「演奏の上手なあいつ、3弦しか使えないことにしないか?」 乗客たちは声を揃える。「そうだそうだ!」 だが、あいつは3弦でも軽々と弾きこなしてしまう。 車掌が再び言う。「じゃあ、あいつだけ2弦しか使えないことにしないか?」 「そうだそうだ!」 それでも追いつけない。やがて、決定的な言葉が落ちる。 「あいつをもう列車から叩き落としてしまおう。99パーセントの乗客のためには、やむを得ない」 「そうだそうだ、やむなし!」

悲しむ人を救いたいという善意から始まったはずの議論が、いつの間にか「突出した誰かを削り落とすこと」へとすり替わる。不平等を均そうとする熱狂の中で、列車は二つ目の山を越え、深い谷底へと突入していく。

終点:服従谷への直通特急

不平等山を転がり落ちた列車がたどり着くのは、かつての封建谷と見分けのつかない「服従谷」だ。

排除の対象は、ベースの上手い奴一人では終わらない。51パーセントの乗客を傷つけないため、悲しませないために、2パーセントの突出した才能や、10パーセントの富を持つ少数派が「やむなし」の掛け声とともに次々と間引かれていく。

ここで起きているのは、単なる暴力ではない。乗客たちは自ら進んで「服従」を選び取っているのだ。

自由をえたいという内的な欲望のほかに、おそらく服従を求める本能的な欲求がありはしないだろうか。 もしそういうものがないとしたら、指導者への服従がこんにちあれほどまでに多くのひとびとを引きつけていることを、どのように説明したらよいであろうか。 服従というのは、常に目にみえる権威への服従であろうか。 あるいは義務や良心というような内面化された権威とか、人間の内部にひそむ強制力とか、また世論のような匿名の権威にたいする服従が存在するのだろうか。 服従することのうちに、一つのかくされた満足があるのだろうか。その本質はなんであろうか
自由からの逃走 / Fromm,Erich/著 日高六郎/翻訳 エーリッヒ・フロム/著

自分の名において他者を妬み、排除することは後ろめたい。だが、「傷つく人をなくすため」「みんなの平等のため」という道徳の形をとって車掌(権威)が代弁してくれるなら、乗客たちは罪悪感なしに怒りを正当化できる。

国民大衆が当てにしている本来の利得は、 自分の憤怒を集団によって聖化してもらうことである。 それ以外に得るものが少なければ少ないほど、いっそうかたくなに、人はより正しい認識に逆らって、大衆運動に加担するようになる。
啓蒙の弁証法 : 哲学的断想 / Adorno,TheodorW./著 Horkheimer,Max/著 徳永恂/翻訳 ほか

自由を求めて走り出したはずの列車は、いつの間にか「自分の判断の責任を放棄し、巨大な正しさに身をあずける快感」を動力にして暴走していた。封建谷の支配から逃れるために敷かれた自由線は、気づけば再び服従へと直通する環状線だったのだ。

途中下車のために:自由線は鈍行で行こう

かつての人々が服従谷へと雪崩れ込んでしまったのは、戦時下という極限状況の中で、特急列車を止める術を持たなかったからかもしれない。だが、現代の私たちはそこまで追い詰められてはいないはずだ。

ならば、この自由線を「鈍行」に切り替えることはできないだろうか。

誰かが傷つくかもしれないからといって、先回りして表現を削り落とし、特急で服従谷へ突っ走るのをやめる。「傷つく人がいる」という事実に直面したとき、すぐに車掌のルールやマニュアルに判断をあずけるのではなく、一度立ち止まってその摩擦を引き受けてみるのだ。

当時「海猿」という映画がヒットしていて、巷に氾濫する映画の情報から身を守るのに苦労をしたことを記憶しています。 私の事情を知らない知人が海に行って楽しかったという話を聞いている間に、つらい思い出がフラッシュバックして震えが止まらなくなったこともありました。 海という一見何でもない表現は、私を傷つけるものとなっていました。 - 略 - 傷つけられた相手を責めることも一つの方法ですが、瘡蓋を作ろうとする強さを身につけることもまた一つの方法ではないかと思うのです。 「優しさ」が「易しさ」であるとしたら、深みのない世の中になってしまいませんか。
誰も傷つけない表現とゾーニング - アートにつぶやく

傷つく痛みをゼロにするために世界を無菌室化するのは、優しさではなく単なる「易しさ」だ。誰かの表現に心が揺れたり、時には傷ついたりしながらも、自ら瘡蓋を作って耐えること。そして作り手もまた、誰かを傷つけるリスクを背負いながら、自らの感性を信じて表現を世に問うこと。その摩擦の中にしか、文化の「深み」は生まれない。

自分の頭で考え、判断し、時に引き受けるという「責任の苦痛」に耐えること。それこそが、自由列車を途中で降り、盆地の豊かな景色を耕し続ける唯一の方法ではないだろうか。

参考書籍